2012年2月講座
「東日本大震災から1年-津波遭遇と被災地取材」
毎日新聞東京本社写真部記者
手塚 耕一郎 氏
去年の3月11日、私は別の取材からの帰路に東日本大震災に遭遇し、それ以来、今日まで延べ2カ月半から3カ月ぐらいの間、被災地で取材にあたってきました。それで今日は、被災地がどういった状況になっているか、最近の状況も含めてご紹介したいと思います。
震災からもうすぐ1年たちますけれども、皆さん、どういった感覚を持たれているでしょうか。もちろん被災地出身の方とか現地に親戚がいる方と、直接被災地にはかかわっていない方とでは、当然思いは違うと思います。東京はあの日、震度5強の強い揺れを経験して、その後、大混乱の中で帰宅難民が生まれたり、計画停電があったり、放射能汚染の問題が出てきたりして、被災地には及ばなくてもさまざまな経験をしています。一方、大阪は震度3程度でその後も特に不自由なく生活ができていますから、東北は遠い存在であるようにも話も聞きます。それでも日本全国、この震災で大きな影響を受けたことは間違いないことです。まもなく一周年を迎えますが、この1年を振り返る一助になればと思いお話しさせていただきます。
大震災の当日、私は毎日新聞と共同通信社で合同運航しているヘリコプターで羽田を午前9時に飛び立って、センバツ高校野球の出場が決まっていた高校の人文字を撮影するために八戸へ向かいました。そして八戸で写真を撮って、そこから南下して釜石のあたりで沿岸部に出たんです。そのままさらに沿岸を南下して仙台のほうに向かうと、途中、女川町を通過します。女川町には女川原発があるので、通りがてら写真を撮っておこうということで、記録用に何枚か撮って、仙台空港に向かっていました。
午後2時46分、たまたまなんですけれども、ヘリコプターは航空自衛隊の松島基地の近くを飛んでいて、パイロットがこの基地と無線交信をしている最中に、突然、大きな地震が起きたという話が聞こえてきました。私たちは海の上を飛んでいたので、地震が起きたということはまったくわからなかったんですけれども、強い地震が発生して大きく揺れているというような話をずっとしているんです。
そして、地震発生から2~3分後、私の携帯電話に、宮城県北部で震度6強の強い地震があったので津波に注意してくださいというような内容のメールが入りました。それで私たちもこれは大変なことになったということがわかったわけです。さらにその数分後、今度は大津波警報が発表されたというメールが入って、この時点で津波が警戒されるということもわかったんですけれども、まずは仙台市内を取材しようという話になりまして、仙台の中心部に向かいました。
これは地震発生から28分後の仙台駅前の様子です。駅前のロータリーのちょうど中央、タクシープールがあるところに大勢の人が集まっていて、避難というか、みんな立ちすくんでいるような状態でした。
このあと仙台市内を回っていると、多くの人が屋上に避難しているんです。中学校の屋上にも生徒だけではなく近隣の住民も避難していて、非常に寒い中で毛布や布団にくるまっているような状況がわかってきました。沿岸に近いところでは皆さん津波を警戒して、建物の屋上に集まっていたとの話です。
これはやはり沿岸にあるビール工場です。下のほうにタンクが幾つか倒れているのが見えます。ここでもたくさんの従業員の方とかが建物の屋上に避難しているのがわかりました。この時点ではまだ津波は来てないんです。白く写っているのはビールの泡のようです。この後、この辺一帯にも高さ2mぐらいの津波が来たということを知りました。
当日の私たちの動きですけれども、沿岸部から仙台の町なかに入って、1時間ぐらい仙台エリアを取材しました。その間、大津波警報が出ていたことはわかっていたので、沿岸部のほうにも注意はしていたのですが、なぜかいつまでたっても津波が来ないんです。みんな津波はどうしたんだろうと思いながら、燃料が減ってきたので、とりあえず仙台空港に向かおうという話になりました。
ヘリコプターの中にはワンセグの小さいテレビがあって、その時点の発表ではM7.9ということでした。宮城県北部で震度7ということもわかったんですけれども、燃料がないので行くことができませんでした。ただ上空から仙台市内を見ていて、震度のわりには建物の被害が少なそうだなという話もしていました。タンクが倒れていたり、たくさんの人が避難しているとかいったことはわかっていたんですけれども、実際に見ていると、建物が次から次へと倒壊しているというような感じではありませんでした。
そして、ヘリコプターが仙台空港の滑走路に着陸したのですが、人が誰もいないんです。給油は通常は電話で事前に連絡しておくのですが、着陸するとすぐ来るはずのタンクローリーが来ませんでした。その時点でもう残りの燃料は30分を切っているぐらいだったので、とにかく給油をしたいということで整備士が事務所へ走って行きました。それが午後3時45分か50分ぐらいなんですが、事務所には誰もいなくて、津波が心配でみんな屋上に避難している、おまえも避難しろ、というようなことを言われたそうです。
そのころ、上空にいた防災ヘリコプターが、空港に津波が来ていると管制に報告しているのをこちらのパイロットも無線で聞いて、給油ができないまま、あわてて午後3時55分に離陸しました。離陸してから10秒、20秒の段階で写真を撮っているんですけれども、津波が一気に入ってきたのが見えました。
前の写真からおよそ40~50秒でこんな状態です。左は海岸線です。こちら側にあるのは貞山堀という運河で、距離はおよそ800mあるんですけれども、1分もかからないうちに津波がどんどん入ってきたんです。写真を拡大してみるとわかるんですけれども、津波が建物を壊すとき、土ぼこりというか煙のようなものが巻き上がるんです。上空に飛び上がって、津波が到達したときにあちこちで煙のようなものが上がっているのが見えました。
この写真を撮ったとき、海岸線一帯にものすごく大きな津波が来ているのがわかって、大変ショックを受けました。あまりにも津波の破壊力がすごくて、ヘリコプターの中は半分パニック状態だったんですが、それでも私はカメラマンですので、とにかく目についたものをどんどん撮ろうと思って、たくさんの写真を撮りました。空港の前にある民間の駐車場から車がたくさん流れているのも見えました。
これは初めの写真からおよそ4分後です。空港の半分以上が津波に覆われてしまっています。初めのころの写真は津波の色が何となく白いんですけれども、どんどん入ってくるうちにどす黒い色に変化していったのが印象に残っています。
実はこのとき上空を飛んでいた報道のヘリコプターは毎日新聞とNHKだけでした。NHKは当日、仙台空港に常駐している人たちが地震に遭遇して、それから30分ぐらいで準備をして飛び立ったそうです。仙台空港はすべての報道各社が常駐しているわけではなくて、カメラマンとかパイロットとか関係者が全員常駐しているのはNHKだけだったそうです。民間のテレビ局だとか、地元の河北新報だとか、そういったところのカメラマンも地震後すぐにヘリコプターで取材するために仙台市内から空港に向かったそうですが、このときヘリコプターの格納庫では激しい揺れによってヘリコプター同士がぶつかったり、上からいろいろな物がばらばら落ちてきてヘリコプターにぶつかったり、そんなことが起きていたわけです。こういうふうになってしまうと、相当細かい点検をしないと危なっかしくて飛べたものではないということで、ほかの機体は飛ぶことができなかったんです。NHKはこのとき午後4時前後から上空からの津波の映像を生中継で放送していて、それが全世界に報道されました。
空港の上空を飛び回っているとき、5kmから7kmぐらい北側に白い煙のようなものにまじって黒い煙が何本か立ち上がっているのが見えました。上空にいるからすぐわかるんですけれども、この周辺は津波が押し寄せる前は火災が一切起きていなかったんですが、津波によって本当に数分のうちに煙が出てきた。タンクとか、プロパンガスのボンベとか、そういったものが次々となぎ倒されて、何らかの形でガスが漏れて発火するとそれが火種になって、さらにそれが動いていって別の物を燃やす、そういうような形であちこちで火災が発生したんだろうと思います。
ここは名取市の閖上地区です。私は仙台にいたとき何度も行っているんですけれども、上から見ていて自分がどこを飛んでいるのかさっぱりわからなくなってしまいました。海岸線の地形が全然変わってしまったような感じでした。
これも同じく閖上地区です。船とか家とか、いろいろな物が燃えていて、どんどん流されていくんです。津波というのは内陸に向かっていくときに水だけではなくていろいろな物を押し流していく。その状態でさっきも言ったような火種になった物がいろいろな物にぶつかって、さらに破壊していくという状況でした。
同じく閖上地区の小学校です。撮影しているときは気づかなかったんですけれども、写真を後からいろいろ見返しているうちに、小学校の屋上にたくさんの人が避難している様子がわかります。
これは津波の先端側です。向こうが陸側で、手前は海側です。車がたくさんとまっているのは渋滞が起きているんです。津波が来るというので、多くの人たちが車で避難したわけですけれども、後ろから津波が迫っていることにほとんど気づかなかったそうです。渋滞で並んでいるさなかに後ろから津波が押し寄せてきたということです。
右左に走っているのは仙台東部道路です。ここが今回は堤防の役割を果たしました。仙台東部道路の東側と西側とで津波の被害に大きな差があったそうです。中には車を捨てて堤防に逃げて助かった人もいるという話も聞きました。
先ほど言ったようにヘリが再び離陸したとき燃料は残り30分程度で、どんどん燃料がなくなっていきました。パイロットはその辺を冷静に判断していて、津波から大体15分程度、写真を撮った段階で、もう燃料がなくなるから逃げるよということで、津波のエリアから退避しました。退避する間際に反対側の窓から海を見ると後ろからまだたくさんの津波がやってくるのがわかって、あわてて遠目に写真を撮りました。
この後、私たちは内陸のほうに逃れて、山間の角田市におりました。仙台空港はもう使えない状態でしたので、学校の校庭だとか、広い空き地をめざしました。この混乱の中でヘリコプターが着陸してもそこで燃料補給ができないかもしれません。そうなってしまったら、ヘリコプターを1回ばらして、車で運ばなければいけなくなるわけです。そんなことを考えると車がちゃんと入れるところを探さなければといったことを、残りの燃料が5分、10分といったときに、パイロットは冷静に考えていたわけです。
着陸したのは工場の空き地でした。そこは地震の影響で携帯電話がつながりませんでした。通常であればヘリコプターに衛星電話を積んでいるんですけれども、この時は共同通信との合同取材ということもあって、装備を積んでいませんでした。といいますのは、東京にヘリコプターがいなくなる状態にはできませんので、別のヘリコプターが東京に待機していまして、そちらのほうに衛星電話とか必要な装備一式を全部積んでたわけです。ですから、通常取材ができるような装備はなかったんですけれども、降りた近くで偶然、公衆電話が使用できたんです。カード式の普通の緑色のなんですが、カードは全然入らなくて、なぜか10円玉、100円玉を入れると通話ができました。それで本社に電話をして、とりあえず着陸を報告。そして、津波の写真はたくさん撮ってるが送る手段がないと伝えました。そうしたら、とにかく送ってくれということで、私も自分が撮った写真がどういう意味を持つかということは理解していましたので、すぐタクシーを呼んで移動することにしました。
運よくローカルのタクシー会社に電話が通じて、30分ぐらいで着陸地点に来てくれて、私だけ乗り込んで仙台市内に向かいました。その最中に携帯電話のメールが使えるようになったんです。私どもは普通は携帯電話ではなくて専用の通信カードを使って送るんですけれども、通信カードのほうは一切使えなくて、携帯電話のメールだけ使えたんです。それでとりあえず写真を7枚、携帯電話に添付して送ることができました。
これは翌日の毎日新聞の最終版なんですけれども、一番初めの版から津波の写真を載せることができました。共同通信の配信を受けて、地元の河北新報にも同じ写真が載りました。河北新報は地元紙ではかなり大きな力を持っていて、翌日の新聞を見て被害の大きさを知った人たちがいっぱいいたということを聞きました。東京では当然のようにテレビで震災報道がなされていて、津波の映像もNHKでリアルタイムで流れていたんですけれども、地元は全面停電で、ワンセグは使えたんですけれども、ほとんどの人はテレビでニュースを見ることができなくて、多くの人は翌日の新聞で初めて実際の被災状況を知ったという話を、2~3日後に聞きました。海外にも多数の写真が配信されて、各国の新聞でも大きく取り上げられました。
震災直後の経験からわかったことは、まず被災地では正確な情報がつかめないということです。現地にいた私たちも、大地震が起きたとか津波警報が出ているということはすぐわかったんですけれども、それ以上の正確な情報が全然入ってこなかった。宮古のほうの津波の映像は午後3時半過ぎにはテレビで流れていたんですけれども、上空を飛んでいるさなか、ずっとテレビを見ているわけにもいかなくて、正確な状況が伝わってきませんでした。
また、仙台空港に降りたときは、正直なところ、これほどの大津波が来るとは思ってもみませんでした。大津波警報が出ているといっても、3~4mの津波であれば防波堤もあるだろうし、まさか滑走路にまで入ってくることはないだろうと、根拠のない感覚を持っていたんです。これは実際に遭遇してみないとなかなかわからないんですけれども、客観的に見たら全然大丈夫じゃないにもかかわらず、まあ大丈夫なんじゃないかと思ってしまいました。それが津波が来て状況が一変してしまったのです。
それから、ガソリンとか食料の流通がストップして、仙台ではほぼ1週間、ほとんどの店舗が営業を停止していました。どこに行っても物が買えない状態で、売り出しをするスーパーには大行列ができました。それがほぼ1週間続きました。こういった状況をみて、日ごろからどういうふうに備えるべきかということを思い知らされたわけです。
また、携帯電話がつながらなくなることは、命にかかわることだと思います。携帯電話は地震とか大きな災害が起きたときでも、停電に備えてバッテリーで基地局が動くようになっていて、それが10数時間もつという話でした。それで宮城県は停電がずっと続いていたので、3月12日になって次々と基地局のバッテリーが切れてしまったわけです。そのため一気に通じなくなった。電話はもとから通じにくかったんですけれども、メールも全然できなくなってしまった。今回の被災状況を受けて、今後はこういったことがないように、緊急時にはバッテリーを長時間生かせるようにするとか、電源車を持っていくとか、移動基地局を設置するとか、携帯各社はいろいろなことをやっているようです。
私どもは取材を通じてこんな話も聞きました。小さな鉄工会社で、社長のお父さんは当日会社にいなかった。息子さんたちは地震があってすぐに仙台空港のほうに逃げたそうですが、社長は仙台市内にいたのに携帯電話が通じなくなったため心配して会社に戻ってきたところで津波にやられて亡くなったそうです。今回、2万人近い人が亡くなったり行方不明になっているんですけれども、携帯電話が通じていれば助かった人も大勢いたのではないでしょうか。今では災害が起きると電話が通じなくなるというのがほぼ当たり前のようになってしまっていますけれども、何とかしてほしいなと思います。
震災後さまざまなところへ取材に行きましたが、特に印象に残っているのは3月14日に女川町に入ったときの様子です。女川町は今回の震災で最大級の津波に襲われて、ビルの3階、4階の高さにまで津波が押し寄せるような状態でした。人口は約1万人、現時点で死者・行方不明者が922人ということで、人口の9%以上の人が亡くなっています。この数字はすべての市町村の中で最悪で、9%を超えているのは女川町だけです。
私は震災前にサンマの水揚げの取材だとかで漁船の転覆事故の取材だとかで何度も女川町に行っているのですが、震災後に町の中に入って見ると、以前の面影がまったくありませんでした。実はこの場所は18メートルぐらいの高台で津波の避難場所になっていて、ここに来れば大丈夫だろうというようなところです。そんなところがのみ込まれてしまうという、想像を絶するレベルなんです。それまでの常識を超えてしまうレベルの津波に襲われたということです。
避難所にはたくさんの人たちが着の身着のままで避難していました。ここは体育館なんですけれども、当時、避難場所はそうたくさんはなくて、2,000人ぐらいの人が避難していました。この避難所と中学校に、2,600人の人が避難していました。震災直後は非常に厳しい状態で、3日目になってやっと食料が到達し始めたという状況でした。
東日本大震災では阪神淡路大震災のおよそ3倍の方が亡くなったり行方不明になったりしているわけですけれども、メディアを通して外に発信されている地域と、そうでない地域があるんです。私たちは3月14日になってやっと女川町に入ったわけですが、非常にひどいありさまでした。自衛隊の方が、「皆さん、今まで通ってきたところで遺体を見ましたか」と聞くんです。何百人もの人が亡くなっているのですが、遺体収容が全然進んでいない。ところが私たちが通ってきた道は住民の方の生活道路にもなっているわけで、そういったところではなるべく遺体が目につかないように隠しているんです。あまりにもショッキングな状態なのでなるべく目につかないようにということと、もう1つは、亡くなった方の尊厳を大切にしたいという、そういう話もしていました。
私は海外での紛争だとか震災とかの取材経験はないんですけれども、海外で大規模な災害が起こると、遺体はずい分ぞんざいに扱われているようです。実際に写真で見たのですが、子どもの遺体を投げるようにしてトラックに積み込んだり、身元がわからないまままとめて火葬してしまうとか、そういったことが多いように感じますが、今回2万人もの人が亡くなった大災害にもかかわらず、亡くなった方の尊厳を踏みにじって遺体をぞんざいに扱うようなことはなかったと思います。私もそういうようなひどい状況は見ていませんし、ほかの人からもそういったことは聞いていません。
こちらは地震から1週間後の宮城県利府町にある大規模なアリーナで、今回の震災で最大級の遺体安置所になった場所です。柩の数が圧倒的に足りないということで、ビニール袋に入ったままの遺体も多数あったんですけれども、こういったところに一体一体置かれていました。その手前には恐らく亡くなった方が持っておられたと思われる遺留品が一緒に添えられていて、確認のために訪れた家族の方が対面して、一人一人チェックをするというようなことをしていました。
これは震災から5カ月たった8月、暑い夏のさなか、たくさんの児童が亡くなった大川小学校前で捜索する県警職員の人たちです。この状態がずっと続いていまして、現在でもまだ大川小学校の捜索は繰り返し繰り返し行われています。すでに捜索を何度もやっている場所で表土となっている土をかき集めて山にして、それを人の手で崩しながら骨のかけらとかとかを捜しています。もしかしたら児童のものが見つかるかもしれないということで、そういった作業を繰り返し繰り返し行っているという話でした。
これは3月12日の朝刊と夕刊です。やはり地震のニュースが大きく出ているのですが、この翌日以降は毎日、原発がトップになりました。こういう状態は宮城県にいる身としては全然思ってもみない事態でした。仙台をベースに取材していて、目の前にひどい状況が広がっているわけで、なぜ原発なんだろうと思ったりしたんです。宮城県から見るとちょっと距離があるので何とも言えないんですが、福島で大騒ぎになったのは当然のことで、東京でも水道水から放射性ヨウ素が検出されたということで騒ぎになりました。
千葉県柏市でも高い線量が出た場所があって、私も現地に行ったんですけれども、正直なところ、測ってみないとわからないことです。当初は誰かが福島の土を捨てたんじゃないかといった話が飛び交っていましたけれども、実際にはセシウムの濃縮だったという話でした。また、東京の世田谷区でもスーパーの敷地で170マイクロシーベルトという高い線量が出たというので大騒ぎになりました。
これからもあちこちでこういう話が出てくると思うんですけれども、今思うのは、個人個人がどういうところに線引きをするかということです。私も昨年10月に子どもが生まれて、子どもに対してはある程度注意しなければいけないとは思うんですけれども、注意するにもきりがないんですね。それこそ限界までいってしまえばもう東京には住んでいられないといった話にもなると思うんですけれども、実際問題、そういう状態になる前に自分ができることはどんなことなのか。あるいは、自分がどれだけ気をつけて生活すればいいのかというのは、個人個人がどういう意識を持つかによって全然変わってくると思うんです。これからもまだまだこういった問題にはずっと悩まされることになるんだろうなというふうに感じます。
話をまた3月11日に戻したいんですけれども、津波を撮影した宮城県名取市の北釜地区を5月に訪れた際、被災者に写真を実際に見てもらいました。写っているのはその方々の自宅だったするわけで、最初は拒否反応が出ないかと心配だったんですけれども、驚いたことに感謝されたんです。ほとんどの人たちは津波が来る前に仙台空港などに避難していて、2~3日後に戻ってみると何も残っていなかった。写真を見て初めて自宅がこのように流されたということを知ったという人が多かったんです。そういったこともあって、いろいろな方から写真が欲しいと言われまして、ここにあった百何十世帯全部の世帯に写真をお送りしました。
阪神淡路大震災では6,000人台の人が亡くなって、けが人は4万人ぐらい、今回の東日本大震災で亡くなった方は2万人近いんですけれども、けが人は五、六千人と言われています。それはなぜかというと、津波というのは、けがをしたけれども大丈夫というレベルじゃないんです。生きるか死ぬかだった。のまれてしまえばそれでアウトだったんです。
震災から1週間ぐらいして、牡鹿半島の先端にある小渕浜というところに行きました。ここは非常に交通の便が悪いところで、陸の孤島のようになっていました。震災から1週間ぐらいたってやっと車で行けるようになって、被災者の写真を撮りました。ここでは集会所とか、みんなが避難するような場所も全部流されてしまって、普通の家とか工場のガレージとかに分散して寝泊まりしていました。本当に何も残っていない中でぎりぎりの生活をしていたんですが、こういった話が3月19日の毎日新聞の朝刊に載ったら、その後、全国あちこちから救援物資が直接ピンポイントで届くようになったという話を後から聞きました。メディアは入りやすい被災地に集中してしまって、入りにくい場所の被害状態はなかなか伝わらなかった。そうなるとどうしても被災地に向かう救援物資にも偏りが生じてしまうということです。
6月ぐらいに女川町で取材したとき、初めは、「私たちはこれまで3カ月間いろいろな新聞やテレビの取材を受けてきたけれども全然載せてくれない。これだけ自分たちの身をさらしてやっているにもかかわらず全然報じてくれないんだったら、もう取材なんか受けたくない」と断られました。私はそれを聞いて、女川町がこんなに被災しているにもかかわらずあまりメディアに登場しないなと、ちょっと感じていたので、返す言葉がありませんでした。震災直後はどうしても報道される被災地に偏りがあるんですけれども、漏れているところも何とかして紹介しなければいけないというふうに強く感じます。
あと、新聞やテレビでは伝わらなかったんですけれども、被災地では臭いが非常にひどかったです。これは1カ月後に冷凍されていた魚の処分をしているところなんですが、あたり一面、ものすごい臭いなんです。近くにレンタカーをとめていたんですが、臭いが丸一日取れないような状態でした。
先ほども言ったんですが、今回の震災が阪神淡路大震災とまったく違う点は、すべてのものが流されてしまったということです。ただ建物が壊れただけなら、その場所から家財道具とかが見つかるんですが、今回はすべて流されてしまって何も残っていないんです。この人は自宅から300mぐらい離れたところで物を探していたんですけれども、話を聞くと、「この周辺になぜかうちの物がいっぱいあるんです」と言っていました。こういうふうに見つかればまだいいんですけれども、中にはまるきり何も見つからないという人も多々いました。それで、見つかった写真をきれいにして展示するようなことが被災地各地で行われていて、いまでもまだそれが続いています。
ここからは今年の様子です。今年に入ってから私は1月に1週間ほど岩手に入って、それから、つい先日も3~4日、被災地に入りました。これは釜石の様子です。釜石は市街地でも2階に達するぐらいの津波に襲われたんですが、営業を再開する店がところどころ出ています。
あちこちで仮設の建物もでき上がっています。ここは小学校の仮設校舎への引っ越し作業の真っ最中だったんですけれども、これから3~4年使い続けるという話でした。1月なんですけれども、この引っ越し作業は早いほうで、場所によってはまだほかの学校に間借りしなければいけない状況が続いているところも多々あります。
あと、大量のがれきです。普通に被災地を回っていると、町の中ではがれきはそんなにたくさん見ません。特に住宅街などはほとんどがれきが撤去されてはいるんですが、海沿いとか山沿いにただ単に集められただけのところがあり、これがまた大問題になっています。がれきを受け入れると言った都道府県は東京都しかなく、被災地だけでは解決できない問題になっています。
これは気仙沼の様子です。船など撤去されていないものもたくさんあります。道路があったところをかさ上げして、仮設の道路ができています。電柱も立っていますけれども、まわりはまだ全然、という状態でした。
一方で、フラガールで有名なスパリゾートハワイアンズが2月8日に全面再開しました。私も取材に行ったんですが、原発から大体50kmぐらいです。風評被害にあえいでいるとはいえ、こういう施設がどんどん再開していくことによって、地域の活性化がかなり進むんじゃないかと思います。
こちらは3日前の女川町の仮設住宅です。ある建築家がかかわって、昨年秋に、女川町にだけつくられた2階建て、3階建ての仮設住宅です。特に女川という場所は非常に平地が少ないところで、そのほとんどが津波にやられてしまったので、無理やり町の野球場の中にこういった仮設住宅をつくって、たくさんの人たちが暮らしているという状態が続いています。
これは一昨日、名取市で撮った写真です。この集会所は先ほどご紹介した北釜地区の集会所で、同じ地区の人たちが仮設住宅に集まっているので、毎日だんらんがあり、うまく運営されているようです。一方で、女川なんかは仮設住宅に入る人たちが抽選で選ばれたせいもあって、同じ地区の人たちが集まっているわけではないということでした。しかも昨年11月ぐらいにやっと完成して入っている。そんな中でコミュニティーがうまく機能していないという話でした。これからうまくやっていければいいと思うんですけれども、集会所なんかまだまだがらがらの状態が続いているということです。
名取市では被災した閖上地区の人たちが集まって仮設の商店街をつくっています。ただ、名取市の沿岸部はやられているんですけれども、内陸のほうに入ると町の機能は全然問題なく維持されているんです。仮設の商店街のすぐ隣には大きなショッピングセンターがあって、正直なところ、なかなか厳しいかなという気はするんですけれども、それでも今月になってやっと仮設の店舗がオープンしたという話でした。
最後に被災地の変化を見ていただいて終わりたいと思います。
これは私ではなくて、今は仙台にいる別のカメラマンが震災前に撮影した写真です。それが震災後はこんなふうに元の形が全然想像できないような状態になっています。ここをまた撮影するという話をしているんですけれども、まだその写真は入ってきておりません。
これは私が2007年に撮った寄磯浜という小さな漁港です。ここも津波にやられてしまって、5月にはこんな状態でした。その後、実は一昨日、行ってきたんですけれども、ほとんど変わっていませんでした。この一帯は1mぐらい地盤沈下したため、盛り土をして、かさ上げされていました。これから漁港復活へ向けての動きが始まるかなというように感じてます。
名取市の住民たちはすでに集団移転に向けて動いています。ただ、集団移転をするにしても今いろいろ問題が生じていて、金銭的な問題もそうですし、移転場所の確保の問題もそうで、初めの3~4カ月のころには移転運動をみんなでどんどん盛り上げていこうという話をしていたんですが、最近は全然動きがないというんです。行政への不満をいろいろ口にする方も多いんですけれども、とにかく震災直後の3~4カ月のころに比べるとさらに動きが遅くなっているようです。
女川です。これは震災直後ですが、3カ月半でこのような状態です。つい最近になって、がれきはほぼなくなって、更地の状態になりました。左の建物は震災の遺構として残そうというような話も出ています。
それから気仙沼ですけれども、私は震災翌日に入ったんですが、初めはこういう状態だったのが、半年後にはがれきがほぼなくなっていて、さらに先月行ったら仮設の事務所みたいな建物ができていました。ただ、この辺も仮設のものはいろいろ建つんですけれども、実際の復興計画はこれからなんです。復興をどういうふうにするのか、まちのレイアウトをどういうふうに決めていくかというのはこれからだと思います。
今回の震災ですけれども、原発に関しては収束するまで40年以上かかるという話が出ています。40年以上というと、これから生まれてくる子どもが原発の収束にかかわる可能性もあるわけです。そのぐらいの長いスパンですので、いろいろな教訓とか何やらを当然残していかなければいけないのですけれども、自分たちのために残すのではなくて、次の世代、さらにその次の世代、50年後、100年後を考えていかなければいけないんじゃないかと私は思います。
このバスは残そうという話が出ては消えて、結局、3月10日に撤去されます。そういった話があちこちであるんですが、私は実態のわかるものを遺構として残しておく必要もあるんじゃないかと感じています。この大型漁船も、気仙沼のほうではこの一帯をメモリアルパークにしようというような話が出ているそうですけれども、まだ本格的な決定はなされていなくて、住民の意向を聞きつつ行政側がどういった対応をしていくかというような段階のようです。
この一本松ももう枯れたという話が出ていますけれども、実際に今後どうするのか。最近、ある新聞に、ここに立ったままで保存することができるというような話も出ていたんですが、ぜひ残してほしいと思います。
以上で私の話を終わります。どうもありがとうございました。(拍手)
(了)