2012年3月講座

「未来のための江戸学」

法政大学社会学部教授 
田中 優子 氏

 

 

 今はそんな時代ではないでしょうけれども、かつて「金もうけして何が悪いんですか」というような言葉がありました。お金をたくさん持っている者が勝者で、そうでない人間は負けという評価基準であるとか、自己責任という言葉にあらわれるように、それができない人間は自己責任がなくて、できる人間だけが自己責任があるとかいったことですが、が、江戸時代の人々はこういう価値基準とは違う世界観を持っていたんじゃないかと思います。江戸時代のものの感じ方とか価値観の中には、今だからこそ大事なこと、それから、これからの社会を迎えるにあたって大事なことが非常にたくさんあるんです。当時は江戸幕府が政治をやっていたわけですが、政治的な判断をするときの価値基準であるとか、経済の判断をするときの価値基準であるとか、いろいろな側面に今私たちが考えなければならない問題がたくさんあります。今日はそれをお話ししようと思います。しかし、何しろ江戸時代というのは270年間ありますから、それを1時間半で話すのはとても難しいので、ほんのちょっとしかお話しできませんことをご了承ください。

 もう一つはブータンのお話をして、ブータンと江戸時代を比較してみたいと思います。私はブータンに行ったことがあるんですが、去年、ブータンの国王夫妻が来日されて、注目もされましたから、皆さん、国民総幸福量=GNH(Gross National Happiness)という言葉はもうご存じだと思います。でも、今の新自由主義の中で生きているアメリカ人や日本人は、そんなあいまいな基準で政治ができるんだろうかと思ったりするわけで、私もそこを懸念しました。自分の幸福もわからないのに、人の幸福なんてわからない。しかも人民全体の幸福を誰かが決めたりするのって気持ち悪いですよね。ですから、一体どういうふうになっているのだろうと思ったんです。

 しかし、これはブータンに行ってすぐ納得しました。何に納得したかというと、これはバランス感覚なんだということです。物質的な幸福を決して否定はしない。それから、個々人の自由も絶対に否定しない。宗教も、一応チベット仏教なんですが、彼らは信仰の自由は守らなければならないと思っています。ですから、そういう自由を侵害するようなことは絶対にしない。そして、物質的な幸福と感情的文化的な事柄とのバランスをとることが非常に重要だと思っているんです。政治や政策はその条件をつくるためにあるということです。政府の中にGNH委員会というのがあって、それがほかの省庁より上位にあるんです。GNH委員会がつくった指標があって、ほかの省庁はその指標に照らし合わせて政策を立てたり、実行したりするわけです。GNH委員会のほうも指標に合っていないとそれをちゃんと勧告する。こういう仕組みになっています。

 それは一体何を柱にしているかというと、4つの柱があって、1つは、社会的経済的発展です。外国人が受け入れられるようなところには電気がありますが、東側に行くと電気がない村がまだたくさんありますから、社会的経済的発展、特にインフラの発展はしなければならない。しかし、それには条件があって、持続可能な発展でなければいけないということを柱にしています。

 2つ目は、文化の保全と促進ということです。文化を守るだけではなくて、自分たちの文化をさらに促進して、つくり上げていかなければならないという価値観があるんです。

 3つ目は環境の保全で、国土の60%は自然林でなくてはいけない。

 そして、4つ目はgood governance、これは「政治」と翻訳するとちょっとニュアンスが違うので、英語のままにしたのですが、うまく治めることという言い方がふさわしいかもしれません。民主的であることと、もう1つは国と地域の関係がうまくいくこと、ここにすごく大きな力を入れています。ですから、個々の幸福を大事にするのと同じように、地域の特徴を大事にする。ブータンの面積は九州の9割ぐらいなんですが、ものすごく高い山が多いので国土が分断されていて、地域によって文化が違うし、言語も違うわけで、それを尊重しないとそれぞれの個性が育たないため、それを尊重するという絶対条件があるわけです。

 私たちは明治以降、それから戦後、持続可能なという部分を忘れていったわけです。 かつて江戸時代には、その言葉は使いませんでしたけれども、持続可能社会をつくっていたのです。なぜかというと、持続可能社会でなければ人々は生きていけなかったからです。自然環境を保護しないと人々は生きていけないからです。

 例えば環境の保全ということだと、日本は今でも山地が70%なんですけれども、そのほとんどが山林です。ブータンほど高い山があるわけではないんですが、非常によく似た形勢で森林がたくさんあります。今、『森林の江戸学』という本が出ていまして、いろいろな研究が積み重ねられてきているのですが、江戸時代の森林政策の一番大事なところは森林の保護なんです。保護とか環境問題というと、私たちは頭の中で、これはいいことだからやらなくちゃいけないというふうに思ってしまうのですけれども、江戸時代の人はそんなことは考えていません。洪水が起こると、何が原因なのか考えれば、山の木を切り過ぎたからだ、だから山の木を切るのをやめよう、これだけです。洪水が起こるとその土地で農業ができなくなって、みんな食べていけないわけです。ところが、森林の木を切るのをやめたら家を建てられません。それから、燃料がなくなる。ですから、高いところの木を燃料に使うということはあまりなくて、「柴刈り」という言葉があるように、里山の低い木を使ったり枝を使ったりするんです。こうして日常の燃料に使っていましたが、また日本では古代から江戸時代までずっと鉱山開発が盛んでしたから、鉱山の近くの山林を相当切っています。それはやはり燃料が必要だからです。

 このような事情があったため完全禁止はできませんから、藩と幕府が率先していろいろな制度をつくりました。例えば留山(とめやま)といって、隣の山の木は切ってもいいが、
この山の木を切るのはやめようとか、停止(ちょうじ)木とか留木というんですが、この種類の木は今切るのはやめようと。そして、絶対に守らなければならなかったのは、「山川掟」といって、川の周辺の木を切るのはやめようとしました。これは洪水のことから言うと当たり前ですね。絶対に根っこから抜くなとか、川の周辺に建物を建てるなとか、幕府も藩もいろいろな規則をつくって森林を保護したわけです。

 ところが、人口が徐々に増えて、新田開発も行われます。そうすると、いくらそういう政策をとっても足りなくなるのではないかと彼らは考えました。そこで起こったのが育林政策です。切ったら必ず植えるということなんですが、それも1回失敗しています。これは本当に一時的なものだったけれども、九州のほうで育てていた木の種類を東北に持っていって植えたのですが全滅しました。こういうことを一度経験すると、これではだめだと、彼らはすぐにやめるんです。ですから、ブナ林に杉を植えるという、戦後の日本でやったようなことは、江戸時代にはやっていません。それぞれの土地にもともとあった木を植えているんです。

 ところで、ブータンでは国土の60%は自然林でなくてはならないということに私は驚きました。日本も森林を保護してきましたけれども、ほとんどは二次林です。自然林はほとんどないんです。ですから白神山地のような自然林が世界遺産になるんです。逆に言うとそれ以外は自然林じゃないということです。古代からずっと伐採してきて、一番伐採したのは戦国時代で、お城をたくさん建てました。それから、鉄砲を膨大につくりました。鉄を溶かして、火薬をつくって、恐らく世界で最もたくさんの鉄砲を持っていたんじゃないかと言われています。つまり戦争をするために大変な武器を持っていたわけで、コストもものすごくかかるし、森林もだめになっていく。江戸時代に入ってからも城下町の建設ということで、しばらくの間、相当切っています。そういうことで日本に自然林はほとんどないんですが、裸山になっているわけではない。それは育林をしていたからです。

 でも、一たん二次林にしたらずっと手入れをしていかなければならなくて、江戸時代は農民が率先して近くの山の手入れをしていたし、木も切っていたので、いつも山に誰かが入っていたんです。それがだめになったのは、一度は戦時中の過剰伐採です。それから戦後になりますが、現代は森林崩壊になっています。これは輸入木材のせいです。今、日本の森林は本当に危機的な状況です。国内で何かをつくるとコストがかかるから、外国から安い物を輸入して、それで間に合わせる。それでお金をもうけられるというわけですが、そうなるといろいろな崩壊が起こります。集落の崩壊も起こるし、農業の崩壊も起こるし、森林の崩壊も起こる。江戸時代から慎重につくり上げてきた日本の国土は、今かなり深刻な状態になっているということです。

 これからTPPがどうなるかわかりませんが、これをやったら完全に崩壊する分野がたくさん出てきます。これは企業がだめになるとか、お金が入らなくなるという話ではなくて、国土の崩壊が起こるという話なんです。日本の経済というと、GNPが上がればいいとか、株価がどうとか、そういう話ばかりになってしまうんですが、本当に大事なのは国土なんです。国土がだめになると私たちは日本に住んでいられなくなるわけで、私はそれが一番深刻な問題だと思います。

 「空洞化」という言葉もそうです。空洞化の話は30年ぐらい前からあって、国内でやるとコストがかかるから外へ出ていく。これも本当に危ないことで、日本の国土を守りながら働いていくという生活が崩壊して、日本から誰もいなくなってしまうということも起こりかねない状態です。そういうことを考えてみると、ブータンの人は何をしようとしているのか、江戸時代の人は何をしようとしたのかということが見えてきて、今の私たちとはずいぶん違うなというふうに思います。

 江戸時代の日本とブータンの共通点は、グローバリズムのただなかで経済的・文化的「自立」を実現し、継続したことです。これは江戸時代で言うと過去形になるし、ブータンは現在形になりますが、自立ということは、自前で生きていくということなんです。ブータンは経済的な自立と同時に文化的な自立も非常に大事だと考えていますし、江戸時代もまさにそうでした。

 私の『グローバリズムの中の江戸』(岩波ジュニア新書・5月刊行予定)という本に書いたのですが、今、私たちはグローバリズムにさらされていますけれども、それは今に始まったことではなくて、世界全体としては16世紀から完全にグローバリズムの世界になっています。その中でどうやってそれぞれの国が生き延びていったのか。日本の場合、グローバリズムの時代に当たるのは戦国時代の末期から江戸時代なんですが、一言で言ってしまうとアジアから自立しようとして、現実に自立した。そして文化的経済的自立の中で生きていった。ブータンも今それをやろうとしているんです。

 たまたまなんですが、江戸時代に日本が脅威だと思っていた国と、ブータンが今そう思っている国がまったく同じなんです。ブータンは中国領のチベットとインドに挟まれています。江戸時代の日本も中国とインドという大国をいつも意識していました。この2つの国の動きに加わったのが、ポルトガル船とかスペイン船がアジアにやってくるという動きですが、彼らについては江戸時代の人たちは実はあまり意識していません。なぜかというと、ポルトガルやスペインには船はあるけれども産業はないということを知っていたわけです。産業革命はまだ起こっていませんで、経済的に成り立たなくて、中国やインドの商品が欲しいから外に出て行くわけです。それは日本とまったく同じで、つまりポルトガル、スペイン、オランダは日本にとって脅威ではなくて、競争相手だったんです。

 日本にとって非常に大事な問題は、中国とインドの力の中に巻き込まれないことです。そのためにはそこから自立していなければならない。巻き込まれるのはどういうことかというと、商品がどんどん来て、それを日本人が買うことです。輸入し続けることは何をもたらすのか。後でまたその問題に戻りますが、自分たちはお金は持っているけれども何もつくれない国でいいんだろうかという、そういう意識が戦国時代の末期から江戸時代の初期には生まれてくるわけです。

 それから、江戸時代は安全に生きるための環境保全を重要視し、持続可能社会を運営していました。先ほど森林伐採で洪水が起こると言いました。もう1つは、江戸時代になると大都市ができて、ごみ問題とか、水問題とか、いろいろと大都市問題が起こってきます。それから、資源の枯渇問題も起こるわけですが、それに非常に速やかに対応して、今の私たちから見ると100%の循環社会を仕組みとしてつくり上げているんです。

 資源が枯渇するというのは、木材だけではなくて紙だとか布だとか、そういう資源がどんどん失われていく。それから、農業が拡大して肥料が足りなくなるわけですが、この問題には人間の排泄物で対応します。都市人口がどんどん膨れ上がって、江戸は世界で最も人口の多い都市になるんですが、この人たちの排泄物を全部農村に投入することで切り抜けるわけです。つまり循環社会をつくり上げたのです。

 それから、国の目標と理念を持っていた。今の日本の目標と理念は何なのかと考えてもよくわからないんですけれども、江戸時代の目標はわりとはっきりしていて、1つは「仁政」です。為政者のまなざしで見る仁政ということと、もう1つは「経世済民」です。これは「経済」のもとの言葉で、経済のもともとの意味は人々が救われるような世界にするということなんです。これもブータンと非常に似通っています。

 そして、governance(治めること)です。先ほど言いましたが、ブータンは強権で治めるのではなくて、地域と国の関係をうまくやろうとしている。江戸時代の日本もまさにそうで、幕藩体制というのは中央集権の体制ではありません。約270ぐらいの藩があって、それぞれが政治的にも経済的にも法律的にも独立していたんです。法律も全部違うし、経済も、例えばお札を出す権限は各藩にあった。江戸時代には「国家」という概念はなくて、各地域でそれぞれの経済はそれぞれのところでやっていたわけです。

 そして、内戦を起こさないように見張っているのが幕府であると言うのが一番いいかもしれません。参勤交代の制度をつくって、とにかく江戸までやってこいと言うけれども、江戸は首都じゃないんです。江戸時代の首都は京都です。今でもそうですが、天皇がいるところを首都というわけです。首都でもないのに江戸にやってこいと言って、各藩の人たちが江戸に一時的にでも集まるようにした。これは外交戦略でもあるので、朝鮮通信使も来たし、琉球使節やオランダ人も来たわけで、外交関係も全部江戸で掌握しました。そういうような国と地方の関係をつくり上げて、戦争を起こさないぎりぎりのところで何となく全体をまとめていた。こういう治め方をしていたわけです。

 先ほど私は『グローバリズムの中の江戸』という本の話をしました。グローバリズムというのはいろいろな意味があって、「サンデーモーニング」で暮れはいつも3時間の特別番組をやるのですが、昨年は「グローバリズムの功罪」というテーマでした。そこで言語人類学者のヘレナ・ノーバーグ=ホッジの『幸せの経済学』の一部を映して、グローバリズムにはいい点もあるはずなのに、なぜまずいのか。それは人が不幸になる仕組みだからだという話をしました。

 どうして不幸になるのかというと、グローバリズムで外からいろいろな情報が入ってきて、どういうふうにお金が動いていて、どんな人たちがいるのかということが伝わってくる。それと同時に商品がどっと入ってくる。この流れが正しい、あるいは進んでいる社会だというふうに見せられたときに、そうでない国の人たちは、自分たちはおくれているというように感じるのです。つまり、自分たちは間違っているから、正しい、進んだ国にならなくちゃいけないと。国がそう考えるのだったらまだいいのですが、個人がそのように考えて、都会に出て行ってお金をためて、いい家を買ったり、車を買ったりする。つまり外国の物を買うことによって先進国になれる、進んだ人間になれると考えようになるわけです。ところが、それまでの共同体から離れて都会に出て行くと別の能力が要求されますから、能力の差が出てくる。うまくいかない。それでいろいろな問題が起こってきます。アジアの国々は今そういう局面にさらされているんです。よく考えてみると日本もそうだったわけで、グローバリズムというのはそういう面を持っているわけです。

 私自身は最初は文学を専攻していましてその後も、江戸時代の生活文化を見ていましたので、あまり意識したことがないのですが、ずっと考えていた疑問がありましてそれは、江戸時代という時代はなぜ出現したのかということでした。そのことは国内の歴史だけ見ていても全然わからないんです。教科書には徳川家康が関ヶ原の戦いで勝ったから江戸時代になったと書いてあるのですが、ほとんど説得力がなくて、そうですかというだけのことですね。でも、グローバリズムの観点から世界の動きを見るとよくわかります。世界の中で日本がどうにもならなくなったときに、次の時代をつくらなければならない。新しい価値観を持った、新しい時代をつくらなければならない。それが江戸時代であったということです。

 そうやって国が江戸時代的な価値観による秩序としてつくられていって、1600年代の日本はずいぶんいろいろなことをやりました。その中に日本人の渡航禁止令というのが入っていて、ずっと後になってからそのことを「鎖国」と呼ぶようになりますが、当初は「鎖国」という言葉は存在しませんでした。鎖国令という法律も存在しません。個別にいろいろやっていた。つまりいろいろやらなければならなかったということです。ポルトガル船やスペイン船に出していた寄港禁止令による影響は、オランダ船が肩代わりをしてくれましたので、江戸時代の人たちにとってはあまり大した問題ではなくて、オランダ船がやってくれるんだったらそのほうがいいという、ただそれだけの選択だったんです。日本にとってそれよりも重大だったのは朝鮮半島との国交回復で、外交の整備が第1課題でした。国としてきちんと外交をするということが始めて行われたんです。隣国との外交ということを視野に入れた国ですから、それを鎖国と呼ぶのはおかしいわけです。とにかくそういうふうにして江戸時代が始まった。これが「グローバリズムの中の江戸」という言葉の意味です。

 自立的な国をつくっていくということになりますと、先ほど言ったように100%の循環が必要だったり、資源の問題をどうするかということでは、何に力を注ぐべきかという視点が違ってきます。戦争をすることにはもうまったく力を注がなくなり、鉄砲をつくるのをやめてしまいました。どちらかというと今まで輸入していた物を自分たちでつくるという方向に転換しました。輸入に頼っていたら自立できませんし、鉱物資源がどんどん外に出ていくだけです。ですから銀の輸出禁止令が出ます。金はほとんどない状態です。もちろん佐渡の金山は確保していて小判がつくられたわけですが、国内で使う量でぎりぎりで外に出す余裕はない。江戸時代になってから外に出していたのは銅だけです。オランダ東インド会社と貿易の決済を銅でやるわけですけれども、それ以外は国内で使っていた。中国人がつくった物を買うのではなくて、自分たちがつくればいいという、それだけのことなんです。そういう国づくりをし始めて、かなり早いスピードでそれが進んでいきます。

 それで、とてもいい職人さんたちがたくさん出てきて、いい商品をつくりますから、内需が拡大して大都市が生まれます。江戸は世界最大の都市になって、そこを中心にして内需が展開するようになりました。常に外国の情報をもらって、サンプル分だけは必ず輸入して、それを見ながら商品を向上させました。インドと日本のつながりは、それまでの歴史の中で江戸時代が最も濃厚で、オランダ東インド会社からインドの木綿を輸入して、それをサンプルにして木綿産業をおこしたんです。それから、中国の養蚕を模範にして日本の養蚕業を育てましたし、同じく中国の陶磁器の技術をもらって、陶磁器を生産しました。それから、中国と朝鮮の生薬を見習って人工栽培を始めます。中国や朝鮮にはないような植物を開発して、生薬にしていきました。つまり最初に言った国土なんです。日本の国土をうまく使って、自分たちがつくれるものをつくっていくことに尽力しました。外国のものをまねしているだけではなくて、日本独自のものが生まれてくるのも江戸時代なんです。

 よく江戸時代は鎖国していたから日本独自のものが生まれたんだと言われますが、そうではなくて、海外からの情報や物をもらって、そこに学んだから日本独自のものができるようになったのです。いろいろなものを取捨選択しながら独自の商品開発をしていった。それで内需が拡大したわけです。

 さて、だいぶ走ってきましたので、今までお話ししてきたことを少し映像で見ていただこうと思います。

 最初にブータンをちょっとだけ見ていただこうと思います。先ほど文化の自立という言い方をしました。具体的に言うと、例えば民族衣装をみんなで着ましょうというわけです。民族衣装というと文化だけの問題に思えるかもしれませんが、実は経済の問題です。なぜかというと、ブータンの衣装は外国ではつくれないわけです。ですから着る物については全部ブータン国内でつくることになるんです。そうするとそれを織る人たちをはじめとして、生産者がブータンの中で育っていく。職人が育っていくという、まさに江戸時代と同じ状況がつくられます。

 お祭りのときはいつもよりちょっといい物を着ていますが、日常でも男性も女性も民族衣装を着ています。このような状況は日本では江戸時代まででした。明治になった途端に男性から洋服を着始めます。これも非常におもしろい現象です。最初に洋服に転換したのは天皇家で、着物をやめて軍服を着ました。皇后はローブデコルテを着ました。そして次に男性の上級官僚から洋服になっていって、家の中にいる女性だけが着物を着ていた。西欧に見習うべきだということで、そのときに文化の保存や経済の自立のために着物を着続けましょうという運動は起こらなかった。しかしブータンはそれをやっているということです。いいとか悪いとかじゃなくて、そういう比較ができるということです。

 それから、ブータンはお祭りが盛んです。お祭りは日本でもかろうじて残っていますが、例えば飾り職人とか、お祭りがなくなったら失われる職業はものすごく多いです。お祭りによって職人たちを支えているわけです。

 これは棚田です。日本でもたぶん中世まではほとんどの地域がこうだったと思います。江戸時代になると平野に出て行って大規模な新田開発をしますので、今私たちが見ている風景に近くなってきますけれども、日本は山がちなので、棚田で水を上からずっと流すようにしてきた経緯があります。棚田は今でも日本に残っていますけれども、ブータンはほとんどが棚田です。

 それから、ブータンでも化学肥料や農薬を使って増産しているのですが、今、政府の主導で有機肥料に転換し始めています。実際に農村を歩いていると有機肥料なんです。江戸時代はこうだったんだろうなと思うような、牛の糞とわらと泥を混ぜて発酵させて、それを肥料にしています。江戸時代は、最初は人間の排泄物を川に流していたのを、厠禁止法をつくって、都市の排泄物を全部くみ取りで外に出すようにした。それが大量ですからやがて商品になっていって、下肥問屋ができてくるんです。下肥だけではなくて、切った髪の毛とか爪とか、魚を洗った後の水とか、お風呂の上がり湯とか、そういうものも全部肥料として使われました。ブータンでもそういう状況があると思います。

 建築材料は、日本でも少し前までは竹で枠組みをつくって、泥にわらなどを入れて壁土にするというようなことをしていました。そうすると湿気を吸うわけです。そういうような建築材料は今はどんどん少なくなっていますが、ブータンでは松の葉を入れた泥レンガを使っていました。

 これは農村で出会った農業をやっている方です。結構大きな農家でした。日本でも農家はわりと大きいですね。それはどうしてかというと、収穫物を入れておく倉庫が必要だからです。ブータンの場合にもそういうスペースが非常に多く取られています。

 これは病院です。病院も伝統的建築物で、建物の向かい側に薬をもらう人たちの列ができていました。医療は全部ただです。薬代も無料です。ここは伝統医療センターというところで、漢方だけなんですが、ブータンの中では西洋医学と漢方医学が両立しています。これも江戸時代と同じで、江戸時代の最初から将軍家の御用医師は、ポルトガル医療をやっている南蛮医療の医師と、オランダ医学をやっている蘭医と呼ばれる人たち、そして漢方医が並立していました。

 医学生は英語がペラペラでした。都会を歩いていて、私たち外国人が英語で話しかけると、庶民でもみんな英語で答えてくれます。英語教育がかなり普及、徹底していて、若い人はほとんどの人が普通に英語をしゃべれます。先ほど政府の方にお目にかかったと言いましたが、皆さん、パソコンを持っていて、プロジェクターで映し出される文字も英語ですし、全部英語で説明してくれるんです。ですから、官僚、政治家、すべて共通語は英語です。こういうところは今の日本とだいぶ違うなという気がします。学生さんたちももちろんみんな英語をしゃべっていますので、外国人にとって本当にコミュニケーションがうまくいく、ありがたい場所です。

 ここからは江戸時代の話です。

 江戸時代は、先ほど言いましたように生活文化は100%の循環型だとかいうというように、いろいろと特徴があります。でも、何といっても今の私たちから考えてよくやっていたなと思うのは、電気がないということです。電気がない暮らしってどんな暮らしなんだろうと思ってしまうのですが、基本的には行灯の明かりで本を読んだり裁縫をしたりしている、そういう絵がたくさん残っています。

 これらの絵を見て、行灯の明かりで本当にこういうことができるのか、私はあるとき実験してみたんですが、結論から言うと全部できました。ただ、今私たちが読んでいる文庫本や単行本は読めませんでした。それから、図版本の浮世絵も光を反射してしまって見えませんでしたけれども、もしかしたらと思って江戸時代の本を読んだら読めたんです。それから、江戸時代のやり方で刷った浮世絵と、まさに江戸時代に刊行された浮世絵は、両方ともとてもきれいに見えました。

 私たちは自分たちの生活の全体の仕組みから電気がないと困ると言ってますが、江戸時代の人たちは電気がないことを前提にして生活の仕組みをつくっているので困らないわけです。電気がないのだったら行灯で読める本を印刷すればいいし、芝居は昼間見ればいいんです。実際に歌舞伎芝居は昼間しかやっていませんでした。もうちょっと言うと太陽が出たら始まって、沈むときに終わるんです。そうすると上演時間が冬と夏では違ってきますが、それでいいわけです。

 電気がない生活を考えたときに、私たちはどうやって過ごせるでしょうか。例えば夏、暑くてもクーラーはないわけです。今、東電の原発は全部とまっていますけれども、とまる前ととまった後と、ほとんど何も変わっていません。なんだ、何も変わらないとみんな思っているわけですが、ただ、夏のピークをどうするのか。人間はずっと冷房なしで生きてきたという事実を思い出さなければならないですね。もちろんこの中にもそういう人がいらっしゃると思うし、私もそうですが、人生のほとんどは冷房なしで過ごしてきたんです。あるときから急に冷房というものが出てきましたが、今でも私は冷房がとても苦手で、家では一切使っていません。

 江戸時代までの建築方法では、先ほど言いましたが、湿気を吸収する建築材料、障子やふすまもそうです。あと、障子とかふすまは取り外せるようになっていて、風通しをよくする配置の仕方になっている。風の流れをつくる建築方法なども開発されました。衣類もそうで、着物はなぜいろいろな場所があいているのかというと、風通しをよくするためです。冬になりますと寒いですから、今はそういうことはしませんが、着物を二重三重に着ます。今は襦袢(下着)と着物という組み合わせですが、江戸時代は着物を2枚重ねたんです。あわせと言って、2枚の布の間に真綿を入れるのでものすごく温かいんですが、今は暖房が発達したために真綿が消えました。2枚3枚重ねる方法も消えました。それが復活すれば、着物を着ていれば寒くなっても全然困らないわけです。冷蔵庫といえば、氷を買ってどんと入れておくのが私の小さいころの冷蔵庫で、あれもけっこう役に立ちました。そういうふうに仕組みとして全体をとらえるということが大事かなと思います。

 「経済とは国土を経営し、物産を開発し部内(領地内)を豊富にし、万民を済救するの謂なり」(佐藤信淵『経済要略』)。当時は「開発」を「かいほつ」と読んでいましたが、人々が救われるための仕組みは何かということを整えていく、それが江戸時代の社会のつくり方でした。グローバリズムの中で言うと自立した社会のつくり方ですね。

 私は「カムイ伝」という劇画を使って「カムイ伝講義」という講義をして、それを本にまとめているのですが、例えば柴刈りの場面が出てきます。今はどうやって柴刈りをしたのかわからなくなっていますが、柴を集めて、ついでにキノコをとって、そういうものを市場に持っていって売る。あと、冬の夜にわらを使ってさまざまな物をつくる。これも循環の仕組みの一つで、お米をとった後に残った物であらゆる物をつくるわけです。こうやって完全に使い尽くして、むだなものが少しもないようにやっていたわけです。

 これは先ほど言った人工の育林ですが、「カムイ伝」の中でも過剰伐採が何を引き起こしたかということを実に巧みに書いている場面があって、大雨が降ったときに過剰伐採をしたところから洪水が起こったということです。

 それから、肥料もいろいろな物を使ったというお話をしましたが、もう1つ、肥料にはいろいろな展開と進化があったのです。江戸時代に開発された新しい肥料は、海の物を山に持っていく、海の物を畑に入れるというやり方で、イワシを土の中に入れて肥料にしているんです。干鰯(ほしか)と呼ばれる干したイワシの絶妙なつくり方があって、これが職人技術なんです。絶対に腐らないで、土の中の微生物によって分解されて、うまく肥料になる。それも職人技術として発達しました。綿花栽培のときにこれをやって、全国に綿花栽培が広まりました。

 江戸時代には農書、農業マニュアルですが、これがたくさん出ています。イラスト入りで、例えば綿花栽培はこうやると絵で示して、それをたくさんの人が読んで、農家から農家へそういうノウハウが伝えられていきました。

 これはイワシの地引き網のやり方です。イワシをとって干して、わらでつくったカマスという袋に入れて納屋に運んでいって、さらにわらを上からかぶせて発酵させます。それを一晩おいて、発酵させすぎないように職人が手を入れて、香りとか温度とかむれ具合を確認した後でカマスから全部出して、もう一度干す。それを繰り返します。これが先ほど言った海の物を肥料にするときの使い方です。この手の技術開発が江戸時代にはものすごく盛んに行われました。農具の開発にしても、電気があるわけじゃなくて、自分たちのやり方でやるわけです。

 歌舞伎の話から農業の話までしてきましたが、きりがないのでこの辺にします。

 江戸時代には生活の細部から仕組みをつくり変えていくということが行われて、新しい状況に対応していきました。つまり輸入しないで自分たちの力で新しい商品をつくって、内需の拡大に持っていくための仕組みです。今までどおりにすればいいじゃないかというところにしがみついていると、次の段階に行けないんです。江戸時代は戦国時代の失敗を乗り越えて、新しい時代をつくらなければならなかった。江戸時代と戦国時代は同じようなものだというふうに思っている方もいらして、豊臣秀吉とか織田信長について私も聞かれることがあるのですが、今申し上げたような意味でまったく違う時代なんです。正反対の価値観をつくり上げていった時代です。江戸時代は戦国時代から見るとある意味では縮小の時代です。だけれども、同時に自立の時代であり、職人の能力ということで言うと非常に向上した時代です。職人だけではありませんで、農民の能力もものすごく向上しました。その農民が人口の80%を占めるわけですから、日本人の能力が向上した時代と言ってもいいと思います。能力開発の時代が出現したわけです。

 そういう江戸時代の状況を見て、私たちはこれからどうしたらいいのか。まず1つは、今までのやり方にしがみつかないということです。どこかでそれを切る必要がある。その瞬間はいろいろと不安があるでしょうけれども、一たんそれをしないと次の開発に結び付かないんです。江戸時代の人たちも必死でやったはずです。一時的にはいろいろな混乱も起きたけれども、それを乗り越えてきたんです。

 そのようなことを考えると、次の段階に移るためには何かをあきらめなければならない。どこかで決断しなければならないということを考えますし、その先には必ず新しい発展があるということも、江戸時代を見ているとわかります。変えようと思ったときには想像がつかなかったような発展もあるわけです。参勤交代が始まったときに、江戸があんなに繁栄するなんて誰も思っていませんでした。でも結果的にそうなったわけです。

 それから、もう1つは、自立の思想ということです。5月に出る『池波正太郎 自前の思想』という本があって、これは佐高信さんと対談をしてつくった池波正太郎論なんですが、この本で私は「自前の思想」と言っています。全部自分で一たん納得したり引き受けたりしながら、自分で決断していく、そういうことも私たちはこれから考えなければならないと思います。

 とりあえず私の講演はこのあたりで閉じさせていただきます。長い時間、どうもありがとうございました。(拍手)

(了)