2012年5月講座

「現場で見て聞いて考えたこと」

毎日新聞社会部部長委員 
萩尾 信也 氏 

 

 

 怪しい者ではありません。多分怪しくないと本人は思っているのですが、あくまでも自分の物差しであります。萩尾と申します。

 自分の物差しのバックボーンとなるものは、例えば生きた時代とか、そのときの環境とか、場所とか、いろいろなものがあるだろうと思いますが、私のことを簡単に申し上げますと、生まれは昭和30年です。今は毎日新聞の編集委員をしております、と、ずっと申し上げてきたのですが、知らない間に部長委員という肩書になっておりました。論説委員と編集委員という2つ、主に年寄りがやる仕事がありまして、論説委員というのは社説を書いている人間でありまして、編集委員というのは英語ではSenior Staff Writerと言いますが、簡単に言えばおっさんの記者という意味だと思います。例えば環境とか、年金の問題とか、あるいは海外とか、いろいろな専門性を持った記者がいるのですが、私の場合は何かと言われると、自分でも何とも答えようがないんです。以前、社内で萩尾は何が専門かという話になったことがありまして、当時は1カ月、路上でホームレスをして、そのルポを書いていましたので、「ホームレス記者」と言われたこともありますし、人の死に逝くところを取材することもあったものですから、「看取り記者」という失礼な名前をいただいたこともあります。

 最近、君は何をテーマに追いかけてきたのかとよく聞かれます。特に考えてきたわけではないのですが、多分人間に対してものすごく興味があったのだろうと思います。何よりも自分のことがわかりません。かみさんのことは多分もっとわかりません。人間て何だろう、というのが私の追いかけてきたことかなと思います。「生きる者の記録」というドキュメンタリーに登場する佐藤健という記者は宗教記者でありまして、彼が亡くなった後に友人が彼を評して言ったのは、菩提樹の木の下で瞑想している仏陀の脳みそを横から鉈(なた)で割って、中をのぞき込みたかったんじゃないかという言い方をしていましたが、私にも多分にそういう気配があります。10年ほど前に佐藤健記者が末期がんであと半年の命だと言われまして、そのときに何よりも当人が人間の最期というのはどういうものか書きたいというように提案したんです。当時の編集局長も社会部長も、内輪の話ですから、それは実におもしろいということになったのですが、途中で意識が低下していって、本人が書けなくなったときにどうしようかという話が伝わってきまして、私は彼のことを兄貴分だと思っていたものですから、それは私の仕事だと思いますよ、と手を挙げて取材をしました。

 先ほど私の物差しという話をしましたが、私の物差しをつくってきた背景を申し上げますと、私は来月で57歳になりまして、企業の中ではもう卒業が近づいた人間であります。同じ年齢で現役の記者はなかなかおりませんが、私はこの10年ぐらい本当に好き勝手をさせてもらっています。学生時代も勉強は全然しませんで、2年間浪人の末に早稲田大学に入りました。大学では探検部に入って、大学4年間のうち2年間、外国をうろついていました。1回目は、1万円で買った中古車で世界一周をしました。インドからシルクロードを通ってイタリアに行き、イタリアのジェノバからアルゼンチンに船で渡って、それもあちこちの船主にレターを書いて、ただで乗せてもらいました。それでアルゼンチンからチリに、そして、アンデスを越えてアメリカまで上がりました。2回目は、大学3、4年のときにアフリカのナイル川をゴムボートで下りまして、全く遊びほうけておりましたが、当時は大学というところは非常にいいところでありまして、4年間のうち2年間、外国に行っていても、4年間で卒業できたのです。私の代わりに萩尾信也と名乗る友達がおりまして、代弁というか、代わりがおりまして、それで卒業できたわけです。

 私が初めて言葉というものを意識したのは、アフリカをゴムボートで下っていたときです。スーダンにヌビア砂漠というのがありまして、今は紛争で大変なところですが、当時は裸族がいっぱいおりまして、男性の平均身長が190cmぐらいのヌビア族とかディンカ族がいました。その砂漠に行ったときに我々が持ち込んだジープが故障して、南京豆を満載したトラックが来るまで、1カ月、オアシスを脱出できなかったのです。そのときに裸族の中にかわいい女の子がいまして、お友達になりたいなと思ったのが、私を言葉とはどういうものかと考えるきっかけになったのだろうと思います。

 私はそのとき1つの言葉を覚えたことによって、言葉がばっと広がっていったのです。私にとってキーワードになったのは、「好きです」ということを言いたくて、それを知るためのもう1つの単語、英語で言う「What」という言葉でした。「何?」「コップ」、「何?」「マイク」、「何?」というのが私にとって言葉がどんどん入ってくるアンテナだったのです。挨拶の言葉は子どもたちと話すといっぱい出てきます。それから、砂漠ですから、のどがかわいたとか、水とか、そういう言葉も出てくるんですけれども、問題は、「何?」という単語をどうやって引き出すか、でした。「日本」と言ったってわからないだろうし、暑いからパンツだけだったんですけれども、こちらは一応服を着ているわけで、向こうも「何?」と言っているに違いないわけです。例えば水を飲むときに、向こうの言葉で「水」と言うと、それが水かなと思ってメモをしていたこともありますが、「何?」という言葉を向こうに言わせたい、そういうシチュエーションをつくれないかということで、思い至るまで5~6日かかったと思います。

 何ていうことはなくて、これは小学校とか女子校の授業でも同じ話をするのですが、裸族ですから、黒板におっぱいの絵とかおちんちんの絵を描きました。そうすると子どもたちが、おちんちんだとか、おっぱいだとか言うわけです。幼児言葉かもしれないですが、それをメモしました。それをずっと繰り返した後に、いきなり紙に、全くそこにないものを描いたのです。私はテレビを描いた記憶があります。そうしたらみんな顔を見合わせて、私の耳には「エリ」という単語に聞こえたのですが、これが「何?」かなと。それから「エリ?」と聞くと答えが返ってくるようになって、暑いとか、まぶしいとか、私がそういう言葉を知りたいんだなということを向こうがわかってくれたのです。そうなると、次から次へと指さしていくことに、何だかんだと教えてくれるようになりました。そのうちに数も入ってきます。ヤギを2匹描くと、「2匹のヤギ」となるわけです。これが2だなと思うと、次は3とか4とか、数をどんどん増やしていく。「好きだ」というのも、何となく好きだという人がいてわかったわけです。それで、約1カ月後に南京豆を積んだコンボイが来まして、最後の日に夕日を見ながら、その子と2人で手をつないでいました。それが私の言葉との出会いです。その後、日本に帰ってきていろいろな文献を読んでいましたら、文化人類学者とか、民族学者とか、みんなやっているんですね。ジョン万次郎もそうです。同じことを考えていたのです。それを先にちゃんと勉強して行っていればもっといろいろな話ができたのにと思った次第です。

 それから、自動車で世界一周をしたときは、フィルムをただでもらっていたということがありまして、「サンデー毎日」にルポを書きました。大学4年の8月にナイル川から帰ってきたのですが、1年間、時計のない生活をしていましたので、広大な時差というか、それを1カ月ぐらいかけて調節して学校に行ったら、みんな就職だという話になっていました。当時、リクルート社が就職情報誌を発行していたのですが、私のところへは届きませんでしたので、自分で就職関係の本を買ってきて新聞社を受けました。まさか学科があるとは思いませんでして、脳みそが真空状態だったものですから、3年ぐらい前からの新聞を3カ月間、とにかく読みました。そのときは吸い込まれるように入っていったので、それをべた暗記しまして、補欠で毎日新聞に入りました。

 そして記者になりまして、「書く」ということに出会うわけです。それまで私は目を点にして、ウハウハして世界中を回っていたものですから、何かを考えて書くということはありませんでした。もちろんアフリカのかわいい子と友達になりたいというときは考えていたに違いないのですが、それは必要性があったからです。世界を旅することで文化の違い、宗教の違い、民族の違いをぼんやりと感じていたのですが、記者となって、それをなりわいとして食べていくことになると、感じたこと、考えたことを文字にしていくことが非常に難しいことでした。表現力の貧しさといいますか、ワンパターンになりがちなところがありましたが、書くという行為をすることによって初めて気づいたわけです。

 失敗を繰り返しながら、次に出会ったのは「相手の話を聞く」ということでした。私はずっと自分の好奇心で動いてきた人間で、結婚した後もかみさんから「あなたは人の話を聞いてない」とよく言われました。新聞記者にはそういうタイプが多いのですが、聞くということは難しいですね。今、私は取材相手に「イエス」「ノー」では聞きません。「そのときどんなにおいがしましたか」「そのときどんなことを感じましたか」と問いかけると、言葉になって返ってきます。それで私の中にすっと入ってきたものをもう一回聞くのです。「イエス」「ノー」でやると、自分の物差しにはまるところにいってしまって、下手をすると相手が私に付き合ってくれることがあります。そうではなくて、「え? どういう意味だろう」とか、「どうしてこの方はそう感じられるんだろう」というところを、また投げ返す。これを「一往復半の問いかけ」といっています。

 私は自殺の取材をするようになってから、去年は三陸におりましたので休みましたが、毎年、年末年始には、自殺防止センターというところで電話を聞き続けております。クリスマスとか年末年始という、人が非常に楽しくいきいきと暮らすときには、つらい思いをしている方々は孤立感を感じるようで、電話が鳴り続けます。そのときも同じ問いかけをします。被災地の場合もそうですね。「頑張りなさい」とか、「こうしたほうがいいですよ」なんていうやりとりをすると、電話をガチャッと切られます。「どうしてですか」とか、「なぜそういうふうに思ったのですか」と問いかけます。「なぜ私はこんなに苦しいんだろう」と思っているときに、「どうしてそう思われるんですか。根っこにあると感じておられるものは何ですか」と問いかけられると、自分の中で起きていることを自分で見つめることになるのです。そうすると、時には自分の状況というか、自分が今苦しんでいる、自分の置かれている環境が、極端な言い方をすると客観的に見えることがあるのです。

 このことは三陸の被災地でもそうです。もともと私は、この人にはどういうことを聞いてどういう話を書こうというような予定は立てません。もちろんデータがあるときには、この人にはこういうことがあったんだとうっすらと思っていますが、最初の2日間ぐらいはほとんどメモも取りません。横に座ったりして、「あんた、何よ」「実は新聞記者なんです」「取材に来たのか」「いえいえ、まだ取材は始まっていませんよ。もしよかったら話を聞かせてくれませんか」と言いながら、少しずつ少しずつ聞いて、それをかなり繰り返します。新聞記者というのは人の心の中に手を突っ込んでかき回すようなところがあるのですが、そのうちに、例えば津波が来た瞬間にその人の心の中で起きたことを言語化してもらえることがあります。最初からメモを取って、テープレコーダーを回したら、誰もしゃべってくれません。「あなたに黙って記事にすることはありません。もし私の質問とか、私自身について、とんでもない、おまえなんか二度と来るなと思ったら言ってくださいね」と、相手にある意味、選択肢を投げてしまうところがあります。お嫌だったらいつでも出て行けと言ってくださいと。出て行けと言われることもありますけれども、また行きます。すみません、また来ましたと。そのうちしゃべってくれることもあります。

 例えば震災の日は、場所によって違いますが、岩手県の三陸沿岸はものすごい星空だった。多くの方は、「とても空を見ることなんかできなかった。そんな余裕はなかった」とおっしゃるんですけれども、「そのときの音は? そのとき周りの状況はどうでしたか」と聞いていくと、最初は高揚したように自分の気持ちを話し続ける方が多かったのですが、そのうち、その人のカメラアングルをぽっと外に動かすというか、耳に残ったものがすっとよみがえるときがあるのです。

 震災で漁師だった祖父を亡くした女子高生がいまして、彼女は妹や母親と離ればなれになっていたのですが、震災直後におじいちゃんのことが一番気になっていまして、避難してくる年寄りを次々と背負って避難所に上がって行きました。消防士の手伝いをしていたのです。そして3月11日の夜12時を過ぎたころ、「ちょっと休んでおいで」と言われて、避難所の外に出て星を見たのです。しかし、それは彼女の記憶にすぐよみがえってきませんでした。でも、いろいろなアングルから問いかけていくと、「『ちょっと休んでおいで』と言われて外に出たときにものすごく星が輝いていた。そういえばそのとき流れ星が流れた。それは緑色だった。その緑色の流れた先で、その後、おじいちゃんが見つかった。おじいちゃんが船に乗るときの合羽の色と同じ色だった」と。そういうようなことが、話をし続けることで浮かび上がってきたのです。

 もう1人、陸前高田の会社勤めの方は、幼稚園に通っている娘さん2人と奥さんが亡くなって、息子と2人の父子家庭になりました。広大な被災地を、毎日毎日歩いて遺体安置所を回り続けました。あるとき夕方近くに情報が寄せられて、1時間以上歩いて遺体安置所に行って次女に会いました。その帰りに彼も月を見ているのです。ちょうど満月だったそうです。彼は最初、「僕はいつも下を向いて歩いていたように思う」と言っていましたが、次女の遺体を確認して、息子の待つ避難所に戻る途中で月を見ているのです。「真っ暗な中、懐中電灯を持っていたのですか」と聞いたら、「持っていなかった。そういえば月が出ていた」「月はどうだったですか」「満月だった」。涙で月がにじんでいたそうです。その人の思いをずっと聞き続けることで、一つ一つその人の記憶をお聞かせいただくことで、その人の物語が動き始めるわけです。

 1985年に日航ジャンボ機が墜落したとき、私はその前の年まで群馬県の前橋支局にいて、そのときは社会部に上がって1年生だったのですが、翌日、リュックを背負って、ヘリで現場に飛びました。当時はヘリポートがありませんでしたので、ヘリから飛び降りてから結局そこで12日間暮らしました。その後、特派員でカンボジアとか湾岸戦争に出かけたり、取材で外国にいるとき以外は、ほぼ毎年、日航機の犠牲者の家族の方々と山に登り続けています。1985年といえば、飛行機で日帰り出張が始まったころです。「起きたこと」は同じなんだけれども、彼らが語る日航機墜落事故を基点とする物語は、毎年変わっていったのです。それはなぜか。

 日航機事故の翌年、生まれた子がいまして、亡くなったお父さんは私と同じ年齢です。毎朝、奥さんのおなかに耳を当てて、心臓の音を聞いて出かけていったそうです。そして出張の帰りに亡くなりました。その息子が20歳になる年に山の上でビールを一緒に飲みました。「ところで、君はお父さんに会ったことないだろう。君の中にお父さんは存在するのかい?」と聞いたら、「いる」と言っていました。母親とか、おじいちゃん、おばあちゃんに聞いた父親が彼の中に存在しているのです。だから困ったときとか、いやなことがあるとき、悩みがあるときは、仏壇の父親に話しかけるのだそうです。そして、自分の中の父親と会話をしたり、おじいちゃん、おばあちゃんに聞きながら、彼が語る父親の物語が動いていくのです。これは私には実に不思議でありまして、毎年、日航機の被害者の家族の方々と山に登り続けているのは、多分これが理由にあると思うのです。「この1年、どうでしたか」と聞くことで、もう1つ、亡くなった方、あるいは日航機事故の物語を聞くことができるわけです。

 私の知り合いに真宗の坊さんがいます。彼は殺人とか、非常に重い刑事事件の被疑者とずっと向き合っていまして、彼がやっているのは、被疑者に自分がやってきたことの物語をつくらせるのです。話の最初は大体殺す瞬間から始まるのですが、繰り返し繰り返し話を聞いていくと今現在の物語になっていくそうです。今回の被災でも、「頑張ってね」とか、「時が痛みを解決してくれるからね」と、多くの被災者は言われました。言っているほうは全然悪気はないと思います。でも、被災者はもちろん頑張っているわけですし、とても時が解決してくれるなどとは思えないわけですから、言う側は自分の物差しを被災者に投げているだけではないかと私は思っています。

 日航機の犠牲者の代表で美谷島さんという女性がいらっしゃいます。その方の小学校3年生の息子さんが初めてのひとり旅で甲子園に出かけました。野球が大好きでした。桑田、清原の時代です。お母さんが自分の都合で飛行機を変えたら、その飛行機が落ちてしまったのです。私が山の上にいるとき、最初に山に登ってきた家族がそのお母さんとお父さんでした。それから毎年、彼女と関わり続けているのですが、彼女に限らず、大切な人を失うことは言葉にしがたいほどの苦しみと悲しみだと思います。彼女の中に出てくる亡くなった息子さんは、遠くに行ってしまったという感覚です。もう帰って来ない。生きていたときの夢を見るとおっしゃっていましたが、それから10年ぐらいたって8月12日の慰霊登山の前に高崎駅でお会いしました。息子はけんちゃんというのですが、けんちゃんは電車が好きだった。ちょうどそのとき、新しい型の列車が走っていて、お母さんは、「けんちゃん、新しい電車が走ってるわよ」と、話しかけたのです。死んだけんちゃん、遠くにいるけんちゃんに声をかけているのではなくて、自分の中にいるけんちゃんに声をかけたのでしょうね。

 このことも私の中にずっとあって、 今回の震災で私は確信に近いものを持ったのですが、「生」と「死」の間には何か大きな壁が存在しているのではなくて、ずっとつながっているのではないかと思っています。そもそも死の線引きをどこでするのか。死に対するいろいろな思いは、生きている人間の側の壁といいますか、恐怖が醸し出しているのかもしれません。

 実は私の親父は、7年ぐらい前に焼酎をのどに詰まらせてぽっくり逝ったのですが、本人は死んだことに気づいていないんじゃないかと思っているぐらいです。ちなみに私の祖父は、毎日散歩していた熊本の畑の柿の木の下で昼寝をしていて死にました。これもまた死んだことに気づいていないんじゃないかという気がします。私の場合、二度あることは三度あるのか、三度目の正直になるか、これはわかりませんが、それは置いておいても、「生」と「死」はつながっているんじゃないかと思うわけです。死んだ父が時々私の中にいるのです。酔っぱらったときとか、鏡を見たときとか、「あれ、これは親父と同じだ」と思うときがあります。昔、反抗期のときは父親の嫌なところばかり目についていたのですが、それが、いまの自分の中にあるように感じるようになってきています。

 私は去年、大切な師匠を2人亡くしました。1人は群馬県時代にずっとお付き合いを願っていたハンセン病の詩人で桜井哲夫さんという人です。この方は昔、らい病になってよかったと思う、という言い方をしていました。そこで得たもの、出会ったものがあると。これはいいとか悪いとかではなくて、彼の気持ちが大きく動いていったということのようです。もう1人は特派員の先輩で草野さんという、アジアをずっと回ってきた男です。この間、2人のしのぶ会をやって、両方とも100人ぐらい集まったのですが、来た方々の中に亡くなった人が形を変えながら存在しているのです。DNAがつながっているかどうかというのは、私にとってはあまり関心のないことでして、それぞれの人の中で生きているのです。私は「記者は縦軸と横軸で、歴史と文化を大事に」とか、いろいろ言ってきました。これは自分が思っていることだと思っていたのですが、実は先輩がずっと言い続けていた言葉だったのですね。みんなの話を聞いていると、ひょっとしてこの人は私の中に存在しているんじゃないかと思うときがあるのです。特に亡くなった後はなぜか頻繁に出てきます。生きている間は距離が遠いとなかなか会えないとか、遠くに行ってしまったと思うのですけれども、亡くなったらいつでも出てくる。これはおもしろいなと思いました。

 それと同じようなことが被災地でも起きていまして、母親を亡くして、ずっと「死にたい、死にたい」と言っていた女性が、あるとき、母親が使っていた化粧品か何かがふっと動いたときに、記憶の中に母親がぽんと出てきたのだそうです。それまで彼女はずっと、「なんであなたはそっちへ行ったの? 私はどうすればいいの?」と問いかけていたのが、今年になったあたりから、「お母さん、今日はこういうことがあったのよ」と話し始めているのです。これはなんなんだろうと思います。もちろん悲しみとか喪失感というのは揺れ動きますので、またつらい気持ち、喪失のほうに重点がいくこともあるでしょうけれども、そうやって気持ちは少しずつ動いていくというのが私の中にずっとあって、今までの取材体験をつうじて、どんどんどんどん膨らんでいるのです。やはり「生」と「死」はつながっているのだと思います。

 前に話しましたが、がんで死に逝く記者は、死ぬところを一緒にルポしようと言いました。最初は「賽の河原通信」という記事にしようと思ったのですが、会社からそれだけはやめてくれと言われました。もちろん、死について書くことに対する抵抗もありました。死については書けないんですね。生について書くのです。そこで、「生きる者の記録」というタイトルで書きました。彼もやはりぎりぎりまでルポしたかったのだろうと思います。これは新聞記者の性(さが)みたいなところがありますが、私も定年前に末期がんを宣告されたら会社にルポしないかと言われるかも知れませんし、多分自分でもやるでしょう。そうでなくても、定年後もずっと生きて、媒体が何もなくても、多分私は言葉にするだろうと思います。「これはどういうことだろう」「これは何と表現すべきなんだろう」という気持ちが起きてくるのではないかと思います。仕事をしているのか、プライベートなのか、全く線引きがつかないのが新聞記者の常だと思います。

 私は、さっき申し上げましたけれども、人を書きたいのです。人を書きたいというのは、多分心をのぞきたいのだろうと思います。自分の心、家族の心、同時代を生きている人の心……、心をのぞくと言うと不遜に聞こえるかもしれませんが、やはり知りたいということです。
実は、三陸で地震が起きなかったら連載をしようと思っていたことがあります。それはもう四、五年前になりますが、心をルポしたいと思い始めたのです。先ほど、「何?」という言葉を知ろうとしたお話をしましたが、それと同じように考えて思いついたのが、「唯識」という仏教用語でした。これは仏教の考え方の1つで、世界は、それぞれの存在というかありようである人の五感(聴覚・視覚・嗅覚・味覚・触覚)と、8つの意識作用、すなわち八識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識)が醸し出しているというのです。その人の存在が消えたら世界は消える。だから空であると。これは悲観的な話ではなくて、そういうとらえ方があるということです。私もそれには思い当たるのです。人間は天動説で生きているんだろうと思うのです。世界の中で、自分が中心にいるのです。そういうものだと思っています。

 昨日、日食を見た方もいらっしゃると思いますけれども、私も隣の中学生の日食レンズを借りて見まして、「太陽って意外と小さいな」という話をかみさんと2人でしました。月が入って輪ができるぐらいです。皆既日食になると全部隠れてしまいます。そのようなわけで、太陽が小さく見えたのです。でも太陽はとてつもなく大きくて、サイズは月の400倍、地球の109倍ぐらいだそうです。それが同じ大きさに見えるということは、地球から太陽までは、地球から月までの400倍離れたところにあるということです。でも、その距離感は私たちの意識の中に常にあるわけではありません。だから日食レンズで見て、太陽は小さいと思ったのです。誠に身勝手な感覚ではありますが。

 人の心というのは、この唯識ではないですが、頭の中で見えている、ある意味、幻想に近いのではないかと思っています。例えばとても楽しいことがあるときには、電車の中でも、職場でも、とても幸せそうに見えます。病気をしたり、つらいことがあるときは、前にいる人の顔が非常に憎々しげに見えたりします。これって、なんで違うのだろう。目で見る現実は何よりも動かしがたいものだと思っているのですけれども、それも心象風景なんじゃないかというのが、私が心をルポするきっかけでした。最初は、途中失明した人の話を聞いた後に、見えるってなんだろう、見えないというのはどういうことだろうと考えて、1週間、アイマスクをつけて暮らして考えたことを書きました。なぜかというと、こういう言葉は嫌いですが、健常者、障害のない人は、五感から得る情報の8割から9割を目から入れているからです。ということは、途中で目が見えなくなったら、どうなってしまうのだろうか、そこを聞きたいというのが、私の取材のきっかけでした。その後は手話の世界にいきました。聞こえないということはどういうことか。そこを取材していましたので、今回の震災で私が書いた「三陸物語」の中に、目の見えない人、耳の聞こえない人の震災体験を記録しています。

 目の見えない人の震災体験ですが、非常に視覚的でもあります。目が見えて耳が聞こえる我々も同じ音の情報が入っているはずですが、どうしても目で引っ張られています。ところが、目が見えない人が例えばビルの屋上に逃げて、津波が下を流れていくときの様子を、「空気が下がった」と表現したのです。冷たい水だったので、まわりの空気が冷えたのです。そして建物が流されてなくなると、建物があるときに反響して聞こえていた音が、聞こえなくなったと言ったのです。こういう話をずっとつづったのですけれども、それは私にとってものすごくビジュアルというか、彩り豊かな印象深いものでした。特に中途失明者は、喪失感というかものすごい苦しみを持つわけですが、あるときから空間認識の仕方が自分の中で芽生えてきて、それに気付くあたりから、もう1つの物語というか彼の世界が立ち上がってくるらしいのです。これもまた、年を取って物差しがどんどんどんどん固くなっていく私にとっては非常に刺激的で神聖にうつりました。この辺も私のテーマでありまして、特に被災地とか障害とかいう問題を探さなくても、実は足元にある話なんです。我々の身近にある世界だろうと思っています。

 私は、日航機事故と同様に、被災地とも今後ずっと関わりを続けていこうと思っています。失ったものは同じなんだけれども、多分物語は変わっていくだろうと思います。それぞれの今の物語を記者として書き続ける。その一番手っ取り早い方法は、出会った人との関わりをずっと続けることです。取材の時は、最初に「おまえみたいなのは二度と来るなと思ったら言ってください」と申し上げていますが、最後は「私と出会ったのは運が悪かった」とご容赦願って、「一生お付き合いをお願いします」というように話しています。一人一人の物語に限らず、多分いろいろなことが起きるでしょう。例えば今、仮設住宅入居者の4割は65歳以上の人たちです。それから、地方自治体の中でも壊滅的な打撃を受けたところは、自主財源が4%から5%です。ひょっとしたら日本の未来を鏡のように映し出しているのかもしれません。日航機も震災も、まずは取材する自分自身が今の物語として自分の中に持ち続けることが、私にずっとお付き合いをいただいている方々にとっても、それぞれの今を考える機会になるんだと、日航機の遺族会の美谷島さんに言われたことがあります。それは私もそうだなと思っていましたが、今回すとんと腑に落ちたところです。ですから、もちろんこうしたテーマと関わりを持ち続けながら、震災がなければ書こうと思っていた「心の探訪」も続けていきたいと思っています。

 私が途中までやってやり残したことは、生まれつき目が見えず耳の聞こえない人たちの話です。その人たちに言葉はどうやって芽を吹いたのか。親はどうかかわってきたのか。言葉がないと、心は感覚的なものですからたぶん言語化できないのではないでしょうか。まして心と心を通わせるとか、心を痛めるとか、心が苦しいとか、心があらわれるようだとかいう言葉自体も生まれないでしょう。

 私は今2人の少年と付き合っているのですが、そこで1つヒントにしていることは、お母さんが子どもとしゃべりたかったということです。目が見えて耳が聞こえる子どもも、お母さんがおいしいおっぱいを飲ませながら、「ママよ、ママよ」と話しかけるのです。目が見えなくて耳も聞こえない子どものお母さんは、それを指点字でやるのです。指でキーボードを打つみたいに「ママよ、ママよ」と送りながら、おっぱいを飲ませるのです。そうやってやりとりする中で、「大きい」「小さい」ということを教えるために、シャツにしてもコップにしても何でもそうですけれども、必ず大きいものと小さいものを用意して、指点字で「大きいコップ」「小さいコップ」とやっていました。

 今、1人は大学生で、私のところに「被災地を見学したいから一緒に行っていいですか」というメールを送ってきました。メールのキーボードが点字になっていて、画面に同じように出ますので普通にやり取りできるのです。それで見学に行って、あちこちさわらせてやりました。彼とはずっと関わっていきたいと思っていまして、私のワンパターンの発想ではありますが、もっといろいろ知るにはどうやっていけばよいかと、表現は悪いですけれども、非常にわくわくしています。このように、次から次へと新しいテーマが広がっていくのはしょうがないと思っています。

 話がばらばらになりましたが、わけもわからず、ぐしゃぐしゃ考えながら、私は記者をしております。話すのが下手で申しわけありませんでした。よろしければぜひ毎日新聞に限らず新聞を読んでいただいて、そこに私の名前があったら、「あいつ、こんなことをやっているのか」と思い出してくだされば、皆さんの心の中に寄生虫のように私がちょぼっと存在していると言えるのかもしれません。それでは、「今日出会ったのが運が悪かった」と思ってお許しください。これで終わりにします。(拍手)

(了)