2012年11月講座
「ドラッカー2020年の日本人への『預言』」
NPO学会会長
田中 弥生 氏
「ドラッカー2020年の日本人への『預言』」の内容は、前半はNPOの話で後半はナチスの全体主義に陥った市民の姿なんですが、その姿と今の日本政治の状況はかぶるところがあります。なぜ人類は全体主義に陥ってしまって、ナチスのようになってしまったのか。二度と人類がそうならないためには、自由と民主主義を守るためには何が大事なのかということを、ドラッカーは若干28歳にして1つの哲学を生み出しました。その哲学が企業のマネジメント論を生み、そして、95歳になるまでに書かれた本の根底にある一貫した思想になっていくのですが、今日はそこのところをお話しして、今、私たちが選ぶ政党がないからといって投票という権利と義務を放棄してしまったら何が起こるのかということを、ぜひ一緒に考えて感じていただけたらと思います。
私がドラッカーと知り合ったのは、本当に偶然の重なりでした。1989年にドラッカーが『新しい現実』という本を出したときに、当時、財団法人に勤めていた私のところにテレビ局のディレクターから電話があって、社会セクターの役割に関する章のところがわからないとおっしゃるんです。読んでみたら自分が所属している組織のことだとわかったのですが、冷戦後の社会を読み解いて、民間の非営利で公益的な仕事をする主体が世界で台頭してくるだろうということが1章を投じて描かれていました。当時の日本では、政府と企業の他に3つ目のセクターがあるというのは理解されていませんでしたから、本当に驚きました。そして、ここまで自分が従事している仕事に関して冷静な目で、しかも大きな視点で語ってくれる人には絶対会わなければいけないと心に決めました。
私が勤めていた財団は国際的な仕事をしていましたので、よくアメリカの財団と情報交換をしていました。そんな中で、ピーター・ドラッカーという人が非営利組織のマネジメントを向上させるための財団をつくるというアナウンスメントが日本にも伝わってきまして、ダラスでシンポジウムが開かれることがわかったので、すぐ申し込みました。1991~1992年にかけてのことでしたが、シンポジウムの会場にいたドラッカーさんに、日本に来て社会セクターの話をしてほしいといきなり頼みました。結果は撃沈で、丁寧にその場で断られました。あきらめきれずにテレビ局のディレクターの方に電話をしたら、こういうことはダイヤモンド社が全部仕切っていると教えてくれましたので、そこからダイヤモンド社にアプローチをして、1993年の秋に日本で講演をしていただく機会を実現することができました。
大手町の経団連ホールにおいて無料で開催された講演は3時間余りでしたが、全て非営利組織をテーマにしました。副題の「非営利組織は企業から何を学ばなければいけないのか。企業は非営利組織から何を学ばなければいけないのか。」というのは、まさにドラッカーが非営利組織のマネジメント財団をつくったときのキャッチフレーズでした。会場には非営利組織と企業の人に半分ずつの比率で来ていただきました。パネリストも一切なく、横に聞き手を1人置くだけのスタイルでドラッカーさんに話していただくというスタイルでしたが、彼が非営利組織について日本で語ったのはこれが最初で最後だったと思います。
翌年、私は社会人12年目で大学院に入学しました。先ほどドラッカーさんとの文通が100通という紹介がありましたが、その内容は本当に稚拙なもので、授業がつまらないとか、この学校に入ってよかったのかというようなことを相談していました。そうしているうちにドラッカーさんから、「1年間で必要な単位を全部取ってアメリカに来ればいいじゃないか」と言われました。それで必要な単位を1年生で全部取って、あとは修士論文を書くので海外にリサーチに行くという名目のもとに、アメリカに渡ることを決心しました。
ドラッカーさんにご自分が教授をされているクレアモント大学院大学に話をつけていただいて、エグゼクティブMBAのコースを取ることになりました。車の免許を持っていない私が歩いて通える場所ということで、家も探してくださいました。それで夏から秋にかけて学校に通い、その後はクリーブランドとかニューヨークのほうにも話をつけていただいて、修士論文を書き上げるための助っ人をしていただきました。そんな中で、ドラッカーさんの日常を随分とかいま見させていただきました。
アメリカで過ごしたのが1995年で、そのときにドラッカーさんとドラッカー財団のスタッフがつくった『非営利組織の「自己評価手法」』という本を日本語に翻訳する仕事をしました。わからないところはドラッカーさんに聞けるという非常に恵まれた環境だったのですが、ある日、ダイヤモンド社から「日本語版への序文」を書いてもらってくれという指令が来ました。
話がちょっと前後しますが、アメリカに渡る前に、下調べをするために3月23日にドラッカーさんとランチをとったときのことです。3日前の3月20日に地下鉄サリン事件があって、1月17日には阪神淡路大震災が起こった年だったのでよく覚えているのですが、ドラッカーさんは、地下鉄サリン事件はどうだったのかとか、阪神淡路大震災のときに企業はどういう動きをして、市民がどんな動きをしたのかということを、新聞だけではなく日本の友人からいろいろ情報を得た上でかなりディープに質問してきて、熱心にメモをとられていました。
そして、驚いたのは「日本語版への序文」を読んだときでした。その内容は、地下鉄サリン事件のオウム真理教の問題と、阪神淡路大震災で多くの人がボランティアを希望して100万人以上の人が集まったことの根底には、実は同根の問題があって、日本の社会が病み始めている予兆だということを指摘した重いものでした。
その後私は、2003年に東京大学で客員準教授を務めることになりましたので、その報告を兼ねて2004年にランチをいたしました。東京大学に移ったという話をしたら、ドラッカーさんは本当に喜んでくれて、これから私に起こり得るであろうことについていろいろな注意をしてくださいました。翌年にドラッカーさんは亡くなられたのですが、ファクスレターの最後にはいつも「Dear Yayoi」ではなく「Dear Old Friend」と書いてくださるぐらいでしたので、私の研究生活において本当に大きな支柱になっていた方をなくしてしまったことに非常に落胆したことを今でも思い出します。
では、本題の「ドラッカーの誤解」というところに入りたいと思います。ドラッカーは「マネジメント論の父」と言われています。なぜドラッカーが企業の経営論に着手したのかというときに一番よく言われるのは、ゼネラル・モーターズから調査を依頼されたからだということですが、これは間違っています。確かにゼネラル・モーターズから調査依頼を受けたことがきっかけとはなっていますが、アメリカに渡るずっと以前から、ドラッカーはその研究をしたいと思っていましたから、このことがマネジメント研究を始めようと思った本当の理由ではありません。
ドラッカーは、1989年に出した本を皮切りに、その後の本でもNPOのことを随分たくさん書いていらっしゃいます。中でもダイエーの中内さんとの往復書簡の本はおもしろいのですが、なぜドラッカーが非営利組織に関心を持ったのかというと、年をとってチャリティー精神が旺盛になったからだというのは全く違います。それから、これはアメリカでよく言われるのですが、2001年のエンロン事件で企業の不祥事があって、企業に失望したから非営利組織に移ったというのも間違いです。アメリカに渡った後のドラッカーを捉えるとそんなふうに解釈できるかもしれませんが、なぜマネジメント論なのか、なぜ非営利組織なのかということの本当の理由を探ろうとすると、ドラッカーの真の思想を解明しなければいけないことを痛感します。
彼の思想は、「一人ひとりが位置と役割を持つ自由社会」というすごくシンプルなものです。これは亡くなるまで変わりませんでしたが、ドラッカーの思想を探ることを始める前に、まずその生い立ちを少しお話ししたいと思います。
ドラッカーは、1909年にオーストリアのユダヤ系の家庭に生まれました。お父様は大蔵省の官僚で、後に経済学の大学教授になりました。お母様は、オーストリアで最初に医学を学んだ女性です。子どものころから常に知識人が近くにいて、医学の専門家や科学の専門家、あるいは哲学の学者といった人たちがしょっちゅうドラッカー家に出入りして、ティーサロンのようなものをつくっていろいろな議論をしていたそうですから、耳学問で常に教養を積んでいたような幼少期を過ごしていたようです。
日本で言うと高校に当たるギムナジウムを卒業したときに、「大学になんか行きたくなかった」と言っています。大学に行くこと自体が金持ちの道楽だから、早く社会に出て役に立ちたいと思ったそうです。この時代はまだ大学に行く人はすごく少数で、しかも働く必要のない金持ちの子息が行くところだったので、金持ちの道楽ぐらいの学問という位置づけだったようです。そのために、早く社会に出て実践的に何か学びたいと考えたようです。ドラッカーを大学の教授にしたいと思っていたお父様がものすごくがっかりしたので、一応ドイツの大学に進学はしたものの、籍だけ置いて授業料を納めると進級ができた時代だったらしくて、実際は行ってなかったそうです。
大学卒業後、ハンブルグの輸出会社で書記見習いの仕事に就いたのですが、夕方からの時間はほとんど毎日、図書館に行って独学で勉強していたと言っています。そこで自分の将来についていろいろ考えたのでしょう。お父様が言うように学者という職業に就くのか、それとも実務に行くのか、それぞれの可能性を試してみようということで、論文を幾つか書き始めためそうです。意外なことに、ドラッカーの最初の論文は統計を駆使した計量経済学でした。そして、幾つかの論文を書き続ける中で、21歳のときに論文だけで法学博士の博士号を取りました。そこから研究のほうのウエートが重くなっていったのだと思いますが、フランクフルト大学の先生に頼まれて非常勤講師になりました。ドイツでプロフェッサーになるということは非常に高い地位を意味していて、お金を全くもらえない大学の非常勤講師でさえ、職に就くと自動的にドイツ市民としての市民権が付与されるというぐらいの名誉職でした。
話がちょっと横にそれますが、オーストリア生まれのヒットラーも、ドイツの市民権が欲しくてドイツの大学の非常勤講師になろうと一生懸命画策をしていたという歴史が残っていまして、そのくらいとても憧れのポストでした。1933年、ドラッカーは若干24歳で憧れの非常勤講師になりました。ところが、悪いことにその年はヒットラーが政権を掌握した年で、間もなくフランクフルト大学に所属している全教員が講堂に呼ばれました。そして、ナチスのコミッサールと言って政治局員のような人が壇上に立って、ユダヤ人の学生と教員は、明日から一切この門をくぐってはいけないということを命じたのです。そのときに、ノーベル賞級の実力を持っていて最もリベラルな発言をされる生化学の教授がいて、その先生がきっと何か言ってくれるだろうとみんな固唾をのんでじっと待っていたところ、やおらその先生が手を挙げて「生化学の研究費はいただけるのでしょうか」と質問をしたそうです。その後、解散して講堂を出るときには、同僚の教授陣はユダヤ人の教授を避けるようにして、自分とは関わりがないという素振りをして退場していったそうです。無論、避けられた1人がユダヤ人のドラッカーでした。
ドラッカーは、その前から、ヒットラーがドイツの政権を掌握する勢力をだんだん増していることを横目で見ながら、早くドイツを出ていかなくてはいけないと思っていたそうですが、この経験で死ぬほど腹が立って、48時間以内にドイツを出ようと決心したと言っています。すぐに反ナチスの論文を書きたいという衝動を抑えて荷づくりをするのが大変だったというぐらい、ひどい屈辱感を味わったのでした。
そしてイギリスに渡った後、いよいよヨーロッパにユダヤ人はいられなくなったと判断して、1937年にアメリカに渡ります。アメリカに渡ってしばらくして、GM社から自分の会社の研究をしてほしいという依頼を受けて、企業に関する研究に着手し始めました。そして、1946年に『会社という概念』という本を出して以来、経営学に関する著書を多数出版されました。また、経営学だけではなくて、1969年には『断絶の時代』という本を出して、情報化社会、知識社会が訪れることを既に読み解いています。企業論だけではなく社会がどうなるのかということについても随分著書を残しています。
ドラッカーがナチスをどうして批判したのかということについては、当時のドイツを理解しないと内容を理解しにくいところがありますので、簡単に歴史を振り返ってみたいと思います。
1914年に第一次世界大戦が勃発して、その5年後に終わるのですが、そのときにドイツ帝国からワイマール共和国という国に変わりました。ワイマール共和国は、ほんの数日でできた連立政府で、世界で最も民主的な憲法を持つ国と言われるぐらい、書面上は民主主義国家のお手本に使われるような非常に立派な国でした。この当時、既に女性の参政権とか機会均等が盛り込まれていました。戦争に破れてワイマール共和国ができたのはよかったのですが、敗戦国ですから、ベルサイユ条約によって多額の賠償金を背負わなければならなくなりました。戦争によってかなりの額の資金を軍費に投資していましたので、既に財政的に非常に逼迫した状態にあったのですが、賠償金支払いによってますます苦しくなっていきました。
せっかくユートピアのようなワイマール共和国ができても、財政的に苦しくて失業率も高いということで国民の不満が高まり、すぐに政権が倒れてしまいます。以後、政治が安定しなくなって、短期間の間に選挙と政権交代を繰り返します。国民は政治に対して不信感を抱いて期待しなくなっていって、1928年に総選挙が行われたときには、投票率が最低を記録しました。実はこれが破綻の速度を早めたと言ってもいいのですが、主要な政党が得票を失って、個別の小さな利害を代表するような利益政党に分裂してしまいました。議会というのはそれぞれの業界だとか小さな地域を代表する人たちの弁になりますから、お互いに原理原則で議論を始めて合意形成ができなくなり、物が決められない状態になりました。このあたりはどこかで聞いたことがありそうな状態ですよね。
そして、いよいよ財政が悲惨な状況になってハイパーインフレーションに陥ります。そこで、ワイマール共和国の大統領が緊急令を発して増税発令をします。これ以降、大統領が発令をして議会はそれを否定しないでどんどん物事を決めていくという統治の仕組みになってしまいました。そんな中で、不満を持った人々や、第一次世界大戦で兵隊に行って戻ってきてから職を失った人たちがナチ党に入って、第三極の勢力を高めていきました。
1933年7月にナチ党が第1党になります。第1党になったにもかかわらず、大統領がヒットラーの言っていることはおかしいといって認めなかったために、ヒットラーは首相になれませんでした。ところが、政権を失った人々が内部抗争していたので、どうせこんなあやしい政党は政権が長続きしないだろうから、とりあえずヒットラーを上に上げておこうということで、その後、棚ぼた式に首相になったという経緯があります。そして、1934年に大統領が亡くなったタイミングで、ヒットラーは、自分は首相兼大統領であり軍最高司令官であるということで、全ての権力を自分の手中に握るような仕組みに変えてしまいました。これによって議会制民主主義は抹殺されてしまったことになります。この後は、まさに反ユダヤ、ユダヤ人の虐殺、そして軍事を中心として国を統率していき、いわゆる全体主義の国家に変わっていくわけです。大混乱の中で何かにすがらなければという国民の心情が蔓延していた中で、ナチスは誕生しました。
では、なぜナチスは台頭したのかということについてドラッカーが分析をしていますので、その内容をお話ししたいと思います。
ドラッカーは1939年に『経済人の終わり』という本をアメリカで出版しますが、実はヨーロッパにいたときからナチスの動向をつぶさに観察していて、そしてそれを批判的に分析した、彼にとっては最初の本格的な著書であります。ドラッカーの最高傑作は『経済人の終わり』ではないかという専門家もいるぐらい、その内容は非常に深遠なものですが、ごく簡単にエッセンスを申し上げたいと思います。
まず第1に、ドイツ国民の経済状況があったとドラッカーは言っています。つまり、大失業が非常に大きな問題だったということです。失業というのは、生計を立てられないという問題だけではなくてもっと深い問題があり、職を失った人は社会との接点を失ってしまうということを指摘しています。社会とのつながりを失った人から見れば、外に見える社会は恐怖以外の何物でもなくて、自分の役割、位置づけを失ってしまうわけですから、非常に精神的に不安に陥り、病んでいくことを語っています。
それからもう1つは、ドラッカーが生まれた1909年というのはまさに資本主義が変わるときで、それまでの商業をベースにした資本主義から、産業革命が起こって大量生産が生まれました。ところが、大きな企業を前提とした社会になったにもかかわらず、社会のシステムがそれに追いついていなかったと言っています。
そのベースになる資本主義が信用できないということで、それの反論としてマルクス社会主義が生まれます。そしてその先にヨーロッパの人々が求めたのは、不変の価値だと言われている「自由と平等」でした。ところが、マルクス社会主義にすがってみたものの、結局、自由も平等も与えてくれなかったと人々は落胆して、自分たちが信じるイデオロギーみたいなものがなくなって根無し草になってしまいます。そして、政治への不信もありました。選挙と政権交代を繰り返してどんどん分裂していく中で、当時のドイツ国民は「選ぶ政党がない」と言っていたとドラッカーは言っていますが、これもどこかで聞いたことがあるなという感じがします。
そして、もう1つは、国民が極端な安定志向になっていったということです。失業すると、経済だけでなく自分の精神と家庭も壊れていくとドラッカーは言っていますが、そんな中で、少しでも安定したいとみんなが思うようになって、安定を与えてくれるのであれば、言論の自由も思想の自由も経済の自由も捨ててもいいんじゃないかと思い出したのです。ナチスが言っていることは、こういう心理にぴったりでした。また、ヒットラーは、ある程度この安定志向の国民に答えを出してくれた時期がありました。彼は公共事業と軍事産業を拡大することによって雇用を創出しました。当時のヨーロッパで完全雇用を最初に実現したのはヒットラー政権下のドイツでしたから、国民にはある種安心感を与えることもできました。そして、財政的に破綻していましたから、賃金をあげないかわりに楽しみプログラムというのをつくって、中間所得層か、あるいはそれ以下の人たちをターゲットにして、金持ちしか楽しめないような観劇とか海外旅行などを政府がサービスとして提供しました。このようにして、自由を放棄してもいいんだという人たちにすっと入っていったのでした。
そして、なぜドイツ国民はナチス全体主義に傾倒していったのかということをドラッカー流に見解を出しています。
完全雇用や喜びのプログラムに熱狂的に傾倒していった国民もいましたが、みんながナチスを正しいと思っていたわけではありません。ナチスが出しているマニフェストは矛盾だらけの非常にまずい政権公約集ですから、一定の知識層の方たちは、ヒットラーがやっていることはおかしいということに気づいていました。でも、自分の身に火の粉がかかるかもれしれないので黙っていた。これをドラッカーは「無関心の罪」と言っています。「無関心の罪」を犯していたことが大きな原因ではありますが、さらに、ヒットラーのせいというよりは“国民が選んだ”とも言っているのです。
当時のヨーロッパには、同じような境遇に陥っていた国もありましたが、その差は「与えられた民主主義」と「獲得した民主主義」の違いだとドラッカーは言っています。自分たちの基本的人権や自由を獲得するために血を流して革命を経験した国は、国民に民主主義に対する「愛着」がある。ところが、ワイマール共和国というのは、敗戦後に皇帝が逃げてしまったために、数日、手続をしてでき上がった民主主義国家ですから、まさに与えられた民主主義でしかなかった。その違いが全体主義に陥るか陥らなかったかの際どいラインだったのではないかということであります。与えられた民主主義しかないというのは日本そのものでもありますし、私たちの多くが見て見ぬふりをする「無関心の罪」をいろいろなところで犯しているのではないでしょうか。さらに言えば、「選ぶ政党がない」と言って全部政治のせいにしていると、同じような轍を踏むのではないかという気がいたします。
そして、ドラッカーは批判だけに終わりませんでした。彼は、『「経済人」の終わり』というナチスを批判的に分析する本を書いている途中から、二度と人類が全体主義に陥らないためにはどうしたらいいのか、未来について語る本を書きたいと考えていました。そして1942年に『産業人の未来』を発表しました。終戦が1945年ですから、結構勇気が要ったことだと思います。彼の未来志向というか、ポジティブシンキングには頭が下がりますが、そのときの思想が「一人ひとりが位置と役割を持つ自由社会」でありました。
一人ひとりが位置と役割を持つというのは、仕事だけではなく社会的に自分が何らかの役割を持って、社会の一員として役に立つ機会や場を持つことができているということです。自由社会というのは、自分たちの社会がどうあるべきか、どうあってほしいかということを自分で選択し、少数の意見に関しても選択の権利が与えられて、選択をした人間には責任が求められるという意味です。自由な社会というのは決して楽しいだけではなくて、選択の自由があるかわりに、選択した責任も自分にある。人類は必ず過ちを犯す不完全なものである。だから絶対とか完璧というものはないし、だれかが絶対だと言った途端に全体主義に陥ってしまう危険がある。そうであれば、人類は不完全であるということを前提にして、過去の失敗や成功を学びながら、それを糧に未来にどう適応したらいいかということを学んでいく。社会はどんどん進化していくので、昔の教訓を学びながらも、現代の今ある課題解決にどう政策や制度が役に立つのかということを試行錯誤を繰り返しながら漸進的に前に進みなさいというのがドラッカーの言っている保守主義であります。
それをベースにした社会を彼なりの言葉で表現したのが「一人ひとりが位置と役割を持つ自由社会」ということで、ドラッカーは3つ要素を挙げています。
1つ目は「自由政府」で、これは国民に選択の自由を担保できる政府という意味です。そして、個人の選択と意思決定と責任を担保できる政府でもあります。多数の意見だけが絶対ではなく、少数の人の意見の選択も認められ、さらには個人の意見も尊重されるという、統治としては非常に難しくて高度なものだろうと思います。そして、政府は社会的な目的を達成するために権力を行使するのであって、権力を権力として使ってはいけないということも改めて言っています。
2つ目は「自治」で、これは私たちが市民として、納税者として、有権者として、消費者としてどう生きるかということであります。まさに社会のあり方については自分たちが選択をしていくということです。政府がどんなに都合のいいことを言っていたとしても、社会において最も課題とされていることについて選択肢を提起できていないのならば、それはまずい政府だし、きちんと提起できるように働きかけるのが有権者である。投票や納税だけでは責任を果たしたとは言えないとドラッカーは言っています。つまり、社会の課題に対して自分たちも自発的に取り組むからこそ、自分たちはどういう社会がいいのか、どういう政策がいいのかという選択をする目を持つことができる。自発的にいろいろな人たちと協力し合って課題に取り組むことによって、世の中には多様な意見があるということをおのずと認めざるを得なくなるということであります。
ですから、ドラッカーはアメリカに渡る前から、アメリカにはたくさんの非営利組織があることを指摘しながら、実は全体主義を抑制するのに最も強力な仕組みがこれであり、アメリカ人自身は気がついていないけれども、たくさんの非営利組織があって、ボランティア活動をして社会の課題にいろいろな意見を持った人たちが関わりあっていることが、アメリカの社会基盤の強さを物語っていると言っています。
3つ目は「企業の役割」です。既に第一次世界大戦のころから企業社会の到来が起こっていたので、第二次世界大戦後は明らかに企業が中心の社会になるとドラッカーは論じていましたが、企業が単に生産活動や経済活動をしているだけでは自由社会は実現できないとも考えていました。企業というのは価格を決定して雇用を創出することができるので、大きな社会的な勢力を持つことになります。ですから、政府に対して牽制をするもう1つの勢力として企業社会があると期待しました。
そして、企業が社会的な影響力や権力を持ち得るのであれば、それは経済的な役割だけではなく、同時に社会的な役割を持つべきで、それはまさに人々にコミュニティの場を提供する役割になるだろうとドラッカーは考えました。地域社会の中で人々がお互いに助け合うようなコミュニティの役割も企業に果たしてほしいと考えたのです。なぜなら、大企業が生まれたことによって、人々が農村から都市へ移動してしまい、農村でのコミュニティや助け合いの仕組みが崩れていくかもしれないので、その役割を企業が担ってくれることを期待したのでした。これが1942年、彼が32、3歳のときでした。
そしてこの本を書いた後に、こういう社会を実現するためには具体的にどうしたらいいのか――。間違いなく企業が中心の社会になるのであれば、自分が考えたように経済活動と同時にコミュニティの役割を企業が担ってくれるためには、どんな企業のマネジメント論が必要になるのかということを自分の目で確かめたくなったのです。これはドラッカーの真骨頂だと思うのですが、アメリカに渡ってからすぐに、研究をしたいので研究材料になって欲しいといろいろな企業を回ってお願いしました。そして、彼が1942年に書いた本を読んだGMの役員に依頼されて、引き受けたのがGMの研究だったということです。
ですから、ドラッカーのマネジメント論というのは、利益を上げて人を効率よく働かせるためのノウハウ論ではなくて、働いている人が会社の中で、あるいは会社の外で自分の位置と役割を持って、個人が社会に必要とされていると思って生きられるような場を提供するためには、企業という組織はどういう運営をしたらいいのかというものです。ドラッカーのマネジメント論が日本人にシンパシーを持って読まれているのは、企業の中に合理性を求めながらも、自分が必要とされて生きるためにはどうしたらいいのかというまなざしが常にあり、それがマネジメント論の中に非常に見事に共存しているからだと思います。
少し現代の話をしておきたいと思います。
ドラッカーは1980年代の終わりから、企業にコミュニティの役割を担ってもらおうと思って期待したことは幻想だったと言っています。その理由の1つは、社会的な課題の多くが企業の外にあったということです。もう1つは、働く人々が流動的で転職が当たり前の社会では、人々にとって企業は通過点になってしまうので、コミュニティの役割を果たせないということでした。それは企業社会から知識社会への転換期の予兆を説明することでもありました。高学歴化が進んで、自分の知識をベースにして働く人々が大半を占めるような知識社会に転換するというのです。今がまさに産業社会から知識社会にフルに変わる真っただ中で、その転換期は2010~2020年まで続くと1995年の本の中で語っています。
これは非常に重要な話で、まさに今、私たちが生きている社会は企業が中心の社会で、経済的には多分それは変わらないと思いますが、さらにもう1つの社会が生まれるということです。彼は最後の文面で、そのときに必要なのは市民社会で、市民社会が全ての前提だと言っていますが、これは先ほどのナチスの話から来ているのです。つまり、私たち一人ひとりが納税者であって、有権者であって、消費者であって、自分たちがきちんと物事を考えて選択をして、選択したことの責任をとらないと、結局、質の低い政治、あるいはよくない企業形態にブーメランのように戻ってくるということです。
私たちが政治を選んでいるわけですから、政治がだめだと言うのは天に向かって唾を吐いているようなものです。それから、企業の労働分配率が低いということが批判されていますけれども、消費者がもっと安い物を求めたときに、企業は外に出ていかなければいけないという選択をしているわけです。そうであれば、どういう企業のどういう商品がいいのかということも含めて消費者が選択をしていかなければ、悪いサイクルを打開できないかもしれません。この市民社会というのは、私たち一人ひとりの生き方がどうであるのかという深いメッセージが込められていると思います。
知識社会のことについても少し述べておきますと、知識ワーカーというのは、大学、大学院を出て、自分の知識だとか学校で得られた技術をベースにして仕事をしたいと思っている人たちで、彼らは自分の知識や技術をもっと生かせるものがあれば、そっちに移っていきます。そして、「会社のために働く」のではなくて、「会社で働く」人たちなので、自分の知識に対しての忠誠心がすごく強いです。ですから、知識社会においては、特に高学歴の働き手は非常に流動性が高くなるだろうと見られます。それは最初にアメリカの社会で若者の間に起こり、そして10年後にヨーロッパの社会で若者の間で起こっているので、間もなく日本の社会でもそれが起こるだろうとドラッカーは晩年に言っていました。
そうなると、企業は経済活動の場ですが、そこで働く個人が社会の役に立っていることを実感するには足りないのです。今の社会は非常に高度に機構がなされていて、政策決定過程に関われるのは一部の人だけですから、私たちが関われるのは投票とか納税です。でも、それでは自分が社会をよくしているとか、社会を変えているという実感は全然得られません。これは人間にとって非常にまずいことで、それを実感するために非営利組織でボランティア活動に参加する選択肢が出てきました。そこで社会の課題を目の当たりにして、自分もそこに生きているんだという実感を味わわせてくれるのがボランティアであり、まさにそういう場こそがコミュニティだとドラッカーは言っています。そして、コミュニティの役割を非営利組織に期待しました。実際にアメリカの社会でそういう役割を実践している例を目の当たりにしましたので、晩年は非営利組織に強い期待を寄せることになりました。これが実は冒頭に申し上げた、なぜマネジメント論なのか、なぜ非営利組織に大きな期待を寄せたのかという本当の理由であります。
最後に、ドラッカーがもし生きていたら私たちに何と言ってくれたのだろうかということを考えてみたいと思います。
まず1つは、ナチスの悲劇は他人事ではないということです。繰り返される政権交代と質の低い政策、あるいは少数分裂、選ぶ政党がないと嘆く有権者、選挙への関心の低さ、そして勇ましい言葉のリーダーに傾倒する人々が増えているという現実。それから、無関心の罪、与えられた民主主義、これらも他人事でありません。ドラッカーは、オウム真理教の若手幹部たちが高学歴だったことから、彼らが持っているエネルギーをああいう形でしか受け止められないのであれば、日本の社会は高い学歴を持つ若者たちを受けきれなくなるだろうと危惧しました。しかし、その一方で、阪神淡路大震災のときにいろいろなボランティアグループが、自分も役に立ちたいという大きなエネルギーを発揮したのだから、そこを伸ばせば日本の社会は病まなくて済むかもしれないと言っていました。
今年の1月ごろ、マニフェストに関して1度政治家を選んでしまったら白紙委任すべきだということを言った政治家がいらっしゃいまして、それを非常に好意的に第1面で書かれた新聞紙面が幾つかありました。しかし、自分でマニフェストを見て判断して選び、それがちゃんと執行されたのか、あるいはできなかったらなぜかということを私たちが責任を持って見守るからこそ、次の選挙があるわけです。それを白紙委任するように言われて怒らない有権者は、まずいと思います。有権者を信用していないのが政治家の本音かもしれません。つまり、私たちのことをレベルが低いと思っているから、政治家は本当の政策案を出さないのです。その代わりに、非常にスローガン的なもの、目を引くものを出してきます。結局、私たちが低く見られているから政治も低くなるという悪循環です。さらに選ぶ政党がないと私たちが投票を放棄したら、ますます負のスパイラルになってしまいます。
もしこの状態が続くとすれば、ドラッカーは絶対に「何で日本人は自分から自由を放棄するのか」と言ったと思います。ですから、次の選挙は物見遊山ではなく、この国をどうしたいのかということを、私たち一人ひとりが統治する側に立ってぜひ考えていただけたらと思います。多分ドラッカーは、草葉の陰からそのことを願っているのではないかと思います。
ご清聴ありがとうございました。(拍手)
(了)