2013年2月講座
「東京駅丸の内駅舎の保存・復原・活用
──重要文化財の現代的活用における意義と課題」
ジェイアール東日本建築設計事務所
丸の内プロジェクト室長
田原 幸夫 氏
昨年10月1日にグランドオープンした東京駅丸の内駅舎に10年近く関わってまいりましたが、多くの皆様のお力で何とか完成して、皆さんに喜んでいただけることになり非常にうれしく思っております。
実は、私は鉄道建築の専門家ではありません。日本で民間の建築家が重要文化財の修復を手がけるというのは非常にまれなケースで、通常は文化庁の専門の修理主任技術者の方がやられております。日本の伝統的文化財というと、お寺とか神社とか民家といった木造がほとんどですが、日本の大学の建築学科ではこれらを修復する教育をしていません。私の場合も、最初はデザインの研究室で新しい物を設計していましたが、勤めて7年目ぐらいのときに、新しいものだけやっていたのではだめだという思いが募ってきました。それで、ベルギーの保存修復を専門にしているユネスコ関連のコースで勉強をしてきました。
しかし、帰国すると日本はバブル真っ盛りで、景気がよくて古い物を残すよりも、どんどん壊して新しい物を造ろうというムードでした。そんな中で、新しい物をやりながら時々現れる古い物に取り組んでいけばいいと思っていたのですが、保存の仕事は全くありませんでした。そんなときにたまたま日本設計で担当したのがワールドビジネスガーデン(WBG)で、設計から監理の最後まで担当させていただきました。これは非常に勉強になりましたが、ベルギーに行っていた期間は全く無駄だったかなという思いもあって、日本では新築がきちっとできないと建築家としてはだめなんだという意識が芽生えつつやっているうちに、徐々にいろんな保存の仕事が入ってまいりました。
ジェイアールさんのこういう仕事につながったのは、汐留の開発のときでした。旧新橋停車場というのがあって、新橋駅の地上面からすぐ下に礎石などの遺構が100%残っているのが確認されまして、それで旧新橋駅を復原しようという話になったわけです。たまたま日本設計では、街区の都市開発から建物の設計まで私が担当しておりましたので、その流れで新橋駅も日本設計でやることになったときに、私に声がかかりました。新橋駅は地上権が設定されて、そこにJR東日本系列の東日本鉄道文化財団という法人が展示室をつくって運営していくことになり、ジェイアールさんにお世話になりながらやりました。そして、ちょうどそれが終わったときに丸の内駅舎の基本設計がスタートすることになって、声をかけていただきました。非常に場当たり的な人生で、たまたまの偶然でやりたかった修復の仕事をやらせていただいておりますが、今日は重要文化財を使い続けていくのはどういうところで難しいのか、あるいは意味があるのかということをお話ししたいと思います。
東京駅の赤レンガの駅舎は丸の内駅舎と言われておりまして、1914年に辰野金吾の設計によってできました。今回は「保存・復原」ということでしたが、ハード面を保存・復原してそれで終わりではなく、駅とホテル、ギャラリーといった現代的な用途で使うということが設計者に与えられた大きな使命でした。
グランドオープン当初は、鉄道を利用するお客様にかなり支障が出るぐらいの人出があってうれしい悲鳴でしたが、最近ちょっと落ちついてまいりました。竣工と同時にライトアップが始まったのですが、今回は今の時代を反映した省エネのLEDを使った非常に繊細なライトアップにしました。国際的に活躍されているデザイナーの面出薫さんの会社にデザインをしてもらいまして、非常にやさしいきれいなライトアップになっています。
実は、丸の内駅舎の中には鉄骨が入っております。鉄骨煉瓦造という建物で、これは辰野金吾がイギリスに留学したときに煉瓦造の建物に非常に影響を受けて、向こうの当時19世紀末から20世紀初めにかけて流行していた様式を彼なりに解釈をしてデザインをしているのですが、非常に素晴らしいのは、日本が地震国という特性を踏まえて鉄骨を中に入れたということでした。
竣工から3年前の1911年に上棟されたときには、非常に密に鉄骨が入っていることがわかっています。レンガを積んで部分的に鉄骨で補強するといったものではなく、鉄骨造と言ってもいいぐらい完結した形ができていて、これにレンガを積んでいくという造り方がされています。
1914年の竣工当時は、今の丸ビルのあたりとか、いわゆる三菱が原と呼ばれているあたりは何もなくて、さぞやすごい景観だっただろうと思われます。
関東大震災では、鉄骨が入っていたこともあって特に被害はありませんでしたが、1945年5月の第二次大戦の東京大空襲では、相当数の焼夷弾が落ちたと聞いております。それで屋根と内装、外壁の窓にも穴がぽっかり空いているのですが、当初の建具はヒノキで造られておりましたので、火災で全部焼けてしまいました。
戦災を受けて当初のデザインは失われてしまいましたが、実は戦災直後は3階の赤レンガも残っておりました。今回の復原工事では3階建てにしておりますが、工事前の丸の内駅舎は2階建てでした。駅だけに休業を続けることはできないということで、一日も早く復旧するために、あえて3階を撤去して新しく屋根をかけたということでした。ですから、正確に言うと戦災で3階が失われたのではなく、戦災を受けて復旧のために3階を撤去したということになります。戦後すぐの1947年には、既に復旧工事が完成しております。びっくりするのは当時の技術者たちの力と熱意で、設計から工事竣工までに2年かかっていません。戦後という物のない時代に、非常に驚くべき仕事をされています。
丸の内駅舎の復原計画が出たときに、現存する姿こそ保存すべきではないかというような論陣を張られている方もいらっしゃいました。辰野金吾のデザインだった時代は30年で、戦後の姿の時代は60年、今生きていらっしゃる方はほとんどオリジナルの姿を見ておられないわけですから、これこそを保存すべきではないかという論理も決して間違いではないのですが、戦災復興の工事は4~5年もてばいいということでやられたようですから、それが60年もったということは、いかに素晴らしい仕事をしたかという裏返しでもあります。しかし、逆に言うとそれ以上は無理ですし、当時の皆さんも辰野金吾デザインの姿に復原したいと思われていたと思います。ですから、1914年当初の姿に戻すのが今の時代に課せられた我々の使命ではないかということから進めてまいりました。
大正11年には、丸の内地区が徐々にでき上がりつつありました。東京駅はできておりまして、中央郵便局の建物は先代のものでした。丸ビルは竣工間際の状況で、日本工業倶楽部もありました。昭和に入りますと、中央郵便局が非常に斬新なモダニズム建築の形ででき上がり、丸の内の街区がほぼでき上がってきました。
昭和の時代には、東京海上のレンガ色のビルが最初の超高層としてできたわけですけれども、建築基準法による100尺を基準にした31メートルの軒高制限がございました。つまり、31メートルのスカイラインがそろっていたわけですが、100%の敷地を3階建てにできれば300%というように、高さではなくて容積で制限する容積制に法律が変わり、かつての31メートルのスカイラインが徐々に崩れていきました。まちの美観としては、昔のようなスカイラインのそろった街並みがいいとおっしゃる方が多いのですが、都市の中で経済活動をしながら建物を使って残していくには超高層によって支えられている部分もあるわけで、今回の場合はそこがポイントでした。
丸の内駅舎のような歴史的な建造物を残すのは、お金もかかるし効率も悪いので、ビルオーナーにとっては非常に大変ことであります。例えばある敷地に20階建ての建物が建つ容積の制約があるとしても、そこに煉瓦造で3階建ての建物があって文化財に指定されてしまうとそれは壊せないので、残りの17階分はビルオーナーにとっては使えない容積になってしまい、経済的には全く不利な状況になってしまいます。
日本では、近代建築がどんどん壊されていくという状況が必然でしたが、丸の内駅舎の場合は国民の財産というイメージの建物で、市民運動や建築学会の保存要望があり、社会的な保存を求める流れがあって、なおかつ国鉄が民営化される中で、徐々に社会の流れが変わっていったのだと思います。一番大きかったのは、2000年に日本で初めてできた特例容積率という制度でした。古い建物、文化財などがある建物の場合も含めて容積をほかの敷地に移転できるという容積を売れる制度ですが、これによって東京駅周辺の区域に限って容積を移転できることになりました。もちろん都市の秩序がなくならないように幾つかの枠はありますが、東京駅の場合は、重要文化財に指定された赤レンガ駅舎を残すことによって、本来使えるはずなのに使えない容積、つまり未利用容積を周辺街区に転売して丸の内駅舎の修復の費用が賄われたわけですから、周辺街区のサポートで重要文化財である東京駅丸の内駅舎は残ることができたと言うことができます。
2000年に重要文化財に指定されたのは、赤レンガ駅舎の地上の赤レンガ部分です。この駅舎は1万1,000本の松杭で支えられて100年間もっていたわけですが、今回、地下を造る必要が出てまいりました。そして、地下を造ることで松杭を撤去して地下に免震アイソレーターという免震ゴムを置いて、大地震のときにも赤レンガ駅舎を守るという計画ができ上がりました。総武函体は昭和の時代にもうできておりましたので、これを残しながらレベルを合わせるような形で地下に新設の建物を造り、その上に免震層と呼んでいる免震ゴムの入る層を造って地上を守ることになりました。ただ、日本の法律というのはなかなか厄介で、地上部分は重要文化財でも地下の部分は新築建物ですので、確認申請を出さなければいけないということで、地下については建築基準法適用、地上については文化財保護法適用という今まで日本になかったような状況になりました。
もう1つ技術的に厄介だったのは、中央線の高架橋が既にできていたことでした。長野オリンピックの年に東京駅のホームの本数を新幹線のために確保するために中央線の高架橋を造ったわけですが、赤レンガ駅舎との間が20センチを切るようなところがありました。建物を免震化すると地震のときには壊れにくくなりますが、40~50センチの変位がありましたので、そのまま免震化すると高架橋にぶつかってしまうという新たな問題が発生しました。そこで、免震ゴムの上に乗っていて地震のときには地震力が入らないように、オイルダンパーというもので引っ張ってある程度以上は動かない、免震化に逆行するような制御の免震システムを新しく開発しました。
東京駅に行かれた皆さんは「駅前広場はいつできるの?」とおっしゃいます。しかし、バス乗り場とかタクシー乗り場とか、あるいは人の動線とか、JR東日本だけでは解決がつかない問題があります。八重洲側では今年の秋にはグランルーフという新しい東京駅の顔ができ上がりまして、JR東日本の言っている東京ステーションシティが完成しますけれども、周辺の広場整備にはまだ時間がかかると思います。
建物は使われないと意味がありません。重要文化財も活用することが非常に重要だと言われていますが、日本で重要文化財の活用というと、今まではそのほとんどが博物館とか資料館として見ていただくだけで、現代的用途で使われているものはそうありません。東京駅の場合は、駅、ホテル、ギャラリーという最先端の現代的な用途で使おうというわけですから、文化財と現代的な用途を両立させるためには、いろいろ工夫が必要でした。オーセンティシティということがよく言われますが、世界遺産としての本物の価値がどこまで残されているかということになりますと、重要文化財としてそういったものをきちっと残さなければなりませんでした。
例えば、新しい会議室を造るのに内部にあるレンガの壁が邪魔だから撤去しようと思っても、重要文化財の場合はそれができませんので、今あるものを残しながらの計画になります。その上で現代的用途に使うということでは、特に丸の内駅舎の場合はホテルが入っております。今回、規模が拡大して150室になりましたが、宿泊施設の安全性は、現代建築を造る場合、一番厄介な問題です。文化財としてのオーセンティシティと現代建築にも優る安全性を両立させなければいけないというのが、今回のプロジェクトのもう1つの大きな課題でした。
行政については、文化財関係の行政手続と一般の建築基準法による行政手続の両方をオーナーと一緒に突破していかなければいけませんので、JR東日本では第一線で活躍されている先生方、行政官の方を入れた専門委員会を作り、設計的な課題について一つ一つアドバイスをいただいて決めていきました。こういった複雑な仕事の場合はプロセスが一番大事でして、その中で正解に一番近い答えを選ぶのが我々の立場でした。専門委員会には大きなサポートをしていただくことになりました。
構造については、日本は地震がありますし、自然災害、台風等もありますから、文化財といってもまずは安全性が第一です。東京駅丸の内駅舎は鉄骨煉瓦造ですが、でき上がった後は鉄骨が全部レンガの壁の中に入ってしまって、見えるところはほとんどありません。重要文化財といっても一部を撤去しないとどうしようもない壁もありましたので、現場に入って撤去をする壁の片面のレンガを外して、中に入っている鉄骨の状況を確認したところ、100年近くたっているのに全く錆びはなくて、当時の鉛丹という錆止め塗料がそのまま施されていました。当時の施工技術にもよりますが、斜めの鉄骨が入っていても、鉄骨の周りにはほとんど隙間なく水平にレンガが積まれていました。鉄骨に合わせてレンガ1個1個を職人さんが加工しながらきちっと積んでいたということもあって、関東大震災でも全く被害はありませんでした。
材料は、当時は八幡製鉄所が鉄骨を造っておりましたけれども、半分近くにイギリスとアメリカから輸入した外国産が使われており、残り半分近くが国産のものでした。通常、煉瓦造の保存というと、基本的には外壁を残して中を鉄筋コンクリートで補強して全く新しく造り変えますが、重要文化財ということもあって、今回は全て鉄骨を使うことになりました。床だけは、炭殻コンクリートという石炭殻を入れて軽量化したコンクリート床でしたが、これはさすがにぼろぼろでしたので全部撤去しました。アイビームの中に入っていた鉄骨も残して、その上にもう一回デッキを置いてスラブをコンクリートで造って、それに合わせて外壁の煉瓦の補強のための小さな梁も造りました。床のコンクリート以外は全部残して、躯体は全て新しい構造体として使っています。戦争時の火災によって梁はほとんど曲がっておりましたが、検査をしたところ性能的には問題ないという保証が得られましたので、全部使って新しい躯体を組み上げております。
重要文化財の赤レンガの建物が地上にあって、そこに地下を造るのは大変なことです。松杭が地上の物を支えているのですが、これを地下構造物に置き換えないといけないわけです。そこで、松杭とずれたところに新しい杭を打って、新しい鉄筋コンクリートの梁を造る。つまり、御神輿を担ぐような形で新しい杭で上の建物を担いで、その間にある松杭を徐々に撤去していきました。逆打ちと言いまして、上から徐々に地下を造っていって、地下が全部できたときに免震のアイソレーターを設置、つまりゴムを置いて、地下の躯体に地上部を乗せ変えるという非常に大変な工事をやりました。地上の土を掘っていきますと、地下のレンガの壁が出てきます。一旦地下部分のレンガを撤去しますと、鉄骨煉瓦造ですので中に鉄骨が入っています。これは構造体として使えますので残して、周りに新しい御神輿を担ぐ棒を鉄筋コンクリートで造り、全部新しい杭で支えていくという作業を335メートルの建物の片端からやっていきまして、これに4年ぐらいかかりました。
「復原」で問題なのは、極力間違いのないように復原していかなければいけないということです。図面の中で色を付けてあるところがオリジナルの設計図に残っていたところですが、実はこれは辰野事務所で実施設計が終わったときに作られた青図です。通常、建築の工事では、竣工図といいまして、設計図を直して建物が完成したときと同じ姿の図面をもう一回作りますが、東京駅の場合はそれがありませんでした。ですから、残っていたのはあくまでも設計図ということで、実際に見ていくと、現在残っているもの、あるいは戦災前に残っていた状況とはかなり違うところがありました。復原の理念として、設計図どおり造るのか、あるいは建物ができたときの姿を復原するのかということが問われますが、我々としては30年間存在していた姿に戻すということで、戦後残されていた部分を測量して設計図との違いをチェックして、もう一度図面を作りました。
レンガも驚くべき施工をしておりました。実は東京駅の表面に見えているのはレンガではなくて、化粧レンガといういわゆるタイル状の薄いレンガです。今では建物をコンクリートで造って表面にタイルを貼るのは一般的ですけれども、当時の日本ではかなり先端の試みだったと思います。躯体のレンガは、長く日本のレンガをずっと供給してきた深谷にある日本煉瓦製造というところで100%造っていて、裏には「上敷免製」という工場の地名を書いた刻印が押されておりました。また、化粧レンガの表面には、45ミリと15ミリの2種類の品川白煉瓦という別の会社で焼いたタイル状のものを貼ってあったことがわかりました。
断面を見てびっくりしたのは、躯体レンガを長手方向、短手方向に積んでいきますと、最後がそろわずに30ミリの段差ができているのですが、辰野さんは2種類の厚みのタイルを造って、それぞれに一段ごとに張り分けていることがわかりました。これは下駄歯積みと言うのですが、建築のプロから見ると、2点ほど信じられない驚きがありました。こういうことをやるには、表面に見えている目地と躯体の目地が全部そろっていないといけなくて、壁の内側のレンガを積むときに表面の仕上げの目地を意識してきちっと積んでいかないと最後の仕上げができません。また、タイルが剥離したり浮いてきたりすることがあるのですが、一段ごとに食い込んでいることで剥離が起きることはなく、どれだけ手間とエネルギーをかけたのかということがわかりました。
それから、屋根の材料は、天然スレートと銅板です。スレートは2種類ありまして、戦後葺かれていたスレートで使えそうなものを石巻に持っていって、そこで加工をしていました。それから新しい材料ですけれども、今、日本で唯一天然スレートが採れる石巻の雄勝という地区のスレートも、石巻にストックされていて、3.11の地震のちょっと後に出荷する予定で準備をして全部梱包されていました。ところが、全部大津波をかぶってしまったという話は伝わってきたのですが、その後の現地の状況が全然わかりませんでした。1カ月後にやっとJR東日本のご担当の方と我々設計事務所、施工者とで石巻に入って確認したところ、何とスレートがそのままの位置で残っていたことがわかりまして、使えるものは使おうということになりました。津波を受けていますから、欠けたものもあって当初の予想していたものよりは減りましたが、国産の物を新しい屋根に使うことができました。当初から巨大な屋根に見合うだけの国産の生産量は得られないということで、一部はスペイン産の物を使うことにしておりましたので、若干スペイン産の物の量が増えたというぐらいで、何とか当初の計画どおり進めることができました。
日本人は割と復原に対して好意的で、例えば縄文時代の建物にしても、写真がなくても想像で造ってしまいますが、ヨーロッパでは、ユネスコなんかでも世界遺産を認定するときには、復原部分は非常に神経質に見られます。信憑性がないものを造り直すということについてヨーロッパ人は非常に厳しいので、その辺が東京駅でも大きなポイントになりました。復原は、本当に根拠があるのかと常に聞かれます。東京駅の場合は膨大な写真が残っていましたので、我々としては多分100%当初の姿に戻せたと思っていますし、戻したところにうそ偽りはないと思っています。ただ、現代のテーマとして残っているのは色の問題です。カラー写真がまだなかった時代ですから、写真はいっぱいあっても、そこの色がどうかと問われたときには、なかなか苦しい状況が出てまいりました。
モックアップと言って本工事に移る前に模型を造ってチェックをするのですが、2階建てになっているところに一部3階を造ってみて、それで問題がないかどうかを確認しました。戦後、屋根をかけるときに3階を撤去しましたが、当時の技術者もなかなか繊細な仕事をされていて、3階を撤去するときに花崗岩の柱頭をきちっと保存して2階に移してありました。今回、3階の部分を造り直すに当たって、それをもう一度大切に上に持っていきました。
「復原」と「復元」はどう違うのかということをよく聞かれます。学術的に定義が
あるわけではありませんが、我々関係者の中である程度コンセンサスが得られているのは、「復元」というのは英語で言うとリコンストラクションで、一度全てがなくなったものを一から造り直すという意味で、「復原」というのは英語で言うとレストレーションで、傷んだり一部なくなった部分を修理して元の姿に戻すという意味ですから、あくまでも本物が残っている場合の定義だということです。東京駅の場合は本物がかなり残っていましたので、現存する建造物について改造された部分を当初の形に戻すということで、「復原」のほうを使っています。
今回の場合は、重要文化財を「使い続ける」ということがテーマでしたが、日本では博物館的ではなく自然に使われている例がまだまだ少ないため、ベルギーでの世界遺産の修復を参考にしました。ベルギーのルーヴェンという町に、グランベギナージュという10ヘクタールぐらいの17世紀のレンガの街並みがそのまま残っていまして、現地のルーヴェン大学がそれを買って学生の住居とか会議場とかに古い街をそのまま使っているという非常に素晴らしい例です。全体は17世紀にできた煉瓦造の建物に見えますが、縦にガラスのスリットが入っていたりして、材料は歴史的なものを使っているのに、デザインは現代的な使い方をしているのが一目瞭然でわかります。ユネスコが言っているのはこういうことで、全体に調和をしているけれども見る人が見たら20世紀に手を加えたところがわかるようにしておかなければいけない。100年後、200年後に見た人が誤解をしてはいけないというわけです。ですから、東京駅に手を加えるに当たっても、我々がやりましたという何らかの表明をしておくために、いろいろと気を遣いました。
それから、オリジナルだけではなくて、戦災復興から今までいろいろな方が駅を使い続けるために手を加えているわけですから、その痕跡を全く取り払って1914年の姿に戻すことは決して正しいことではありません。後から手を加えたものであってもいいものは残していくという評価をしながらやっていくのが、正当な修復であると思っています。
例えば南北ドームについては、写真に残っている辰野金吾がデザインしたオリジナルのドームは、和風でお寺のお堂か何かの感じもしますが、戦災を受けた後は、飾り梁や回廊が撤去されて、モダニズム的な非常にすっきりとしたデザインに変えられていました。窓もちょっと変えられていて、北ドームはホテルの客室に使われていましたし、柱も補強されて太くなっていました。こういったことを踏まえて最終的に計画を進めていきました。重要文化財に指定されたときに、この部分は復原することがほぼ方向づけられていたのですが、戦後長くここにジュラルミンドーム円形の天井が付けられておりまして、その中には焼け残ったレリーフや写真も相当残っておりましたので、100%確実な復原ができるだろうという自信はありました。
それともう1つは、1、2階は現代の駅で、大正時代のものとは全く違うことです。今回の計画ではホテルやギャラリーが入っていまして、当時とは全く違う機能をしており、形だけ復原しても意味がないので、1、2階については現代の要素でデザインをしました。ただ、復原をした3階以上の部分と1、2階とが違和感が生じてしまってはおかしいので、ベルギーの例のように、調和しているけれども区別ができるようにしました。床に大理石の模様貼りをしましたのは、戦災復興の1つとしてここにあったジュラルミンドームを想起させるように、ローマのパンテオンのような丸屋根だったジュラルミンドームのパターンを床に転写したデザインにしました。
丸の内の皇居側については100%復原することで何ら疑問はなかったのですが、大変だったのは線路側です。戦災を受けた直後は窓上の花崗岩が溶けて丸くなってしまったくらい、火災の被害がものすごく大きかったと聞いています。40~50ミリ全面はつり取って、モルタルの赤い塗装をした壁面が戦後60年ずっとあったわけですが、そのためにこちらは完全に裏の姿になってしまって、いわゆる設備施設スペースとして使われていました。中央線の高架橋の下をお客さんが歩いていても赤レンガは全く見えないので、赤レンガ駅舎を見ていただけるように何とか開放したいということで、ここを撤去して上にガラス屋根をかけて光が入るようにしました。
中央線の高架の中央部分の屋根のところにホテルのゲストラウンジを造りまして、ガラス屋根にさせていただきました。奇をてらったんだろうとか、ルーブルのピラミッドを真似したんだろうと言う方もいますが、決してそういうことではありません。昔のホテルは南半分だけだったので、お客さんがレストランにいく動線はそれほど長くありませんでした。ところが、今回は新しく客室を増やしましたので、かつての場所にレストランを置いておくと、朝食を食べるためにお客さんが300メートル以上歩かなければいけないことになってしまいます。ですから、何とかここに大きなレストランを作りたかったのですが、重要文化財に指定された建物の壁を撤去することはできないということで、苦肉の策で屋根裏が空いていることに目をつけました。文化遺産のストックを豊かに使い続けるという徹底した活用をしたわけですが、とにかく建物は使われないといけない。活用の仕方が見つからなくて博物館にしてしまうという歴史的な建物が多いですが、それでは建物が本当に100%生きることにはならないと思っています。
そういった例はそんなに多くはありませんが、幾つかあります。
日本では、横浜の日本大通りにある三井物産横浜ビルは、1911年に第1期ができた日本における大規模鉄筋コンクリート造の第1号で、いまだに健在です。また、辰野金吾が東京駅を造るための習作だと言われている旧盛岡銀行は、岩手銀行中ノ橋支店として100年を超えてそのまま使われていました。昨年、新しい建物に銀行店舗が移り、今後は博物館的な用途になるようなので残念ですが、辰野金吾と葛西萬司が関わった同じようなデザインの建物が、東京駅ができる3年前に竣工して使い続けられていました。それから、日本橋の室町の旧森五ビルは、今は近三ビルという名前に変わりましたが、日本建築家の巨匠の村野藤吾のデビュー作と言われている当時としては斬新なオフィスビルで、今でも最先端のビルとして使われ続けています。
海外では、ブダペストにあるグレシャムパレスブダペストという立派なホテルがあります。東京駅と同じように戦災でやられた後、社会主義だったのでかなり荒っぽく使われていましたが、ベルリンの壁が崩壊した後、21世紀に入ってからフォーシーズンズが改装して、今は素晴らしいホテルになっています。実は、今回の東京駅のステーションホテルの基本デザインも同じデザイナーの方がやってくださったというつながりがあります。それから、ベルギーのヴィクトル・オルタというアール・ヌーヴォーの建築家のやった住宅は、世界遺産ですが普通に使われてきれいに残っています。
いずれにしても、近代の文化遺産は、建物のハードだけではなくて当初の機能でずっと使われているということが非常に大きいのではないかと思います。東京駅も昔の機能のまま保存・復原されて、これから100年間また使われていくでしょうし、長く使われ続けていくことが建築にとっては大事であり、都市を豊かにしていくのだと思います。
保存に関しては、例えばタイルが傷んでいるところは、復原部分ですから新しい材料で造っていますが、よく見ると区別がつきます。ところが、現地をご案内すると、「何で下も貼り替えなかったの?」と言う方が結構います。文化財としてはこういう歴史の積み重なった表情こそが非常に重要であって、それを全部新しくしてしまったのでは一から造り直した復元と全く一緒になってしまうという説明をするのですが、その辺が建築の美しさと歴史を感じることの非常に難しいところです。あまり汚過ぎると建物の品格として問題になりますから、バランスをいかにとるか。その文化財の価値がなくならないように、手を加え過ぎないということが非常に重要になります。
東京駅にはいろいろな棟がありますが、当時造られたとき、またそれ以降も中の全部が使われていたわけではなかったと思います。昔のこういう洋式建築というのは、外観上ここに棟が欲しいから棟を造っているというのがよくあって、中に部屋が欲しいから棟を造っているというわけではありません。しかし、今回は全ての内部空間を全部使うことを1つのテーマにしていましたので、ほぼ100%使っています。
2つの棟はお客様の乗車口と降車口でしたが、中央の貴賓用の玄関に近郊線の出入り口があって、その下にアーチがありました。昔の駅というのは物流の拠点でもあったので、このアーチから物の出入りがあったわけです。そういう意味で、辰野さんはここに棟を造って、1つの象徴にしたのではないかと思います。現地で見ていただくと変更されたところがおわかりになるかと思いますが、いろいろ使い方を変えながら建物を100%生かせるような方向で手を加えていきました。
まず、赤レンガとコンコースの間にガラスの庇をつけて、お客様が自由に近づけるようにしました。また、以前より赤レンガの展示室ということで評価が高かったステーションギャラリーは、今までは丸の内の広場側から入る位置にありましたが、北端部に移動して北ドームから中に入っていただくような造りにしました。そして、レンガの壁を配して昔のレンガ造りの歴史を感じていただけるように造りました。
ホテルは、150室という非常に規模の大きなものになりましたが、設計者泣かせだったのは、レンガの壁がたくさん残っていたことでした。通常の新築建物ですと、1つのスタンダードルームを設計すれば、例えば超高層のホテルなんかではそれを積み重ねていけばいいわけです。ところが、今回は全部レンガの壁の位置が違うものですから、30タイプぐらいで組み立てています。中にはメゾネットで屋根裏を使って、階段を上がっていくと上にベッドルームがあるような部屋も造りました。これも使われていなかったところを100%使うという考えから出てきたアイデアです。リッチモンド社というロンドンで一番老舗の非常に力のあるインテリア事務所がきっちりと基本のデザインをしてくれたものですから、ホテルのほうも評判がよくて喜んでおります。真ん中の屋根の中にあるゲストラウンジは、家族で朝食をとっていただくには非常にいい小部屋になっていまして、お泊まりの節には、「ここで朝食を食べたい」と言っていただくとセットしてくれると思います。
ドームは南北ほとんど同じデザインです。南のドームのほうに行きますと、黒い具材が入っているのがおわかりになると思いますが、貴重なオリジナルのピースをそこだけ保存して再度取り付けています。ほとんどのピースは傷んでいたので再度取り付けることはできませんでしたが、状態がよかったものは樹脂を含浸させて、当初材ということではめ込んでいます。いまだに毎日すごい数のお客様が来られて写真を撮られていますが、この辺の色は、白黒の写真からある程度検証していって入れたものです。
以上です。どうもありがとうございました。(拍手)
(了)