2013年7月講座

「翻訳と人生」

名古屋外国語大学学長 
亀山 郁夫 氏

 

 講演が始まる前の1時間というのは複雑な気持ちにかられる、非常に貴重で、かけがえのない時間でして、どのようにしてお越しくださる方を眠らせず、最後までじっくり聞いていただき、何がしかの満足感をもってお帰りいただくかとか、また、どれぐらい品よく講演をやることができるかとか、いろいろ考えます。実は、私自身は決して品のよい人間ではなくて、むしろ憑かれたように語りつくすタイプでして、途中で、うまくスイッチが入ると、90分後の私は多分、まるで別の人間になっているのではないかと思っております。

 私のライフワークはドストエフスキーの5大長編を翻訳することで、本来なら今年9月に『白痴』の第1巻が出る予定だったのですが、公務に取り紛れて、今、翻訳そのものがかなり滞っているところです。出版社のほうも大変やきもきしているのですけれども、いろいろと複雑な事情があって仕方ありません。翻訳というのは時間があり、精神的にガッツがあればできるのですけれども、非常に苦痛とストレスを伴う作業です。翻訳というのは、基本的に、他人の話を100%聞き取る、それも細大漏らさず聞いて、しかもそれを全部、記録し、別の言語に移し替えて読者の前に差し出す行為です。ところがそこで少しでも間違えると、すさまじい批判を浴びるという本当に割に合わない世界なんです。しかも、今はネットがありますので、批判はいくらでも大っぴらにできます。私自身、『カラマーゾフの兄弟』の訳に対して激烈な批判を受けましたが、これはもう、体重が4キロ痩せるぐらいの衝撃的な事件でありました。

 この事件が起こってから、既に5年が経っています。当時、『カラマーゾフの兄弟』の翻訳を成し遂げることができた喜びで、有頂天といいましょうか快美感に浸っていたところにその騒動が起きました。『カラマーゾフの兄弟』は毎日出版文化賞特別賞という大変栄えある賞をいただきました。毎日出版文化賞特別賞というのは、宮部みゆきさんの『模倣犯』とか、養老孟さんの『バカの壁』といった話題作に与えられる賞で、受賞作は、いわば、どれだけ多くの人々に受け入れたかを示す、一種の読者賞的なところがあるんですね。非常に光栄に思いました。しかも、翌年には、栄えあるプーシキン賞を、当時のメドベージェフ大統領より特別にクレムリン大宮殿でいただきました。その年のプーシキン賞は、どうやら世界でただ一人だったということらしく、私は大変うれしくて、また、NHKの朝のニュースでも1、2分ほど報道してくださいました。そのような、ある意味では異常と言ってもよい興奮状態が、半年、1年と続く中で、青天の霹靂のごとく、WEB上で私の翻訳に対する批判が始まったのです。

 ドストエフスキーの小説と言えば、ポピュラリティの順でいうと、何よりもまず『罪と罰』で、その次に『カラマーゾフの兄弟』が来ます。そして、『白痴』、『悪霊』、『未成年』と続くわけですね。しかし、私の場合、最初に訳したのが『カラマーゾフの兄弟』でして、次に翻訳をしたのが『罪と罰』だったわけですが、この『罪と罰』の翻訳では、かなり慎重になってしまって、その分、若干、私の持前である推進力といいましょうか、リズム感が失われ、読者を一気に引き込むような訳には仕上がりませんでした。慎重に慎重を重ねると、翻訳というのは死んでしまうところも実はあるのです。あれだけの長い小説ですと、読者を乗せるための努力がものすごく必要とされるわけで、私自身、自分なりに計算に計算を重ねてやっていって、最後の段階ではある意味で原文を飛躍して、超えて、訳をつくったのです。そこを突かれてしまったということです。

 翻訳者というのは、先ほど言いましたように、相手の話を100%聞くという非常に厳しい、どちらかというとカウンセラーのような仕事でもあります。しかし、私自身は、本当はむしろカウンセルを受けなければならないようなところのある人間で、ノーマルな人間だというふうにはほとんど感じたことはなく、常々、自分はどこか異常なものを持っているなと思っています。右の脳と左の脳の働きについてよく言われます。言語能力をつかさどっているのはどちらかというと左の脳で、右手の動きに反映されるわけです。ところが、それとは別の、より古代人に近い脳は右の脳にあって、それは情念とか感性といったものをつかさどっているのですが、どうも私は、幼い頃から左の脳が結構劣っていたような気がするのです。反面、右の脳はまあまあけっこういい線を行っているかもしれないとずっと思い続けてきました。

 相手の話を聞き、それを正確に伝えるということは、右脳ではなくて左脳でやっていく作業が多いので、批判的な知性とでもいいましょうか、クリティカルシンキングとでもいいましょうか、あるいは分析的知性というものが要求されるわけです。私の場合は、非常に大雑把な人間でして、どちらかというと古代的な脳、あるいはメタファー的な脳とも言いますがそちらに分類されると思います。AとBとCの3つの対象物があって、その違いをしっかりと見きわめていく、これが分析的脳ですが、民族学者の折口信夫はこれを別に分ける性質の能力、「別化性能」と呼びました。これはまさに近代人の脳です。それに対して古代人の脳というのは「類化性能」で、AとBとCの違いをしっかり見きわめるのではなく、むしろ類似性を発見していく方向に想像力や感性が働く、要するに、メタファー的な脳であると言っています。折口は、人間のタイプには2つあって、そのどちらかに属しているというわけです。ジャーナリストになる方々は、どちらかというとバランスのよい発達を求められるでしょうね。少し例を挙げてみましょう。東大の法学部に入るような学生は、恐らく別化性能が非常に優れていて、早稲田大学の文学部に行く人は多分、類化性能が優れている。村上春樹を筆頭に、早稲田大学がたくさんの優れた作家を生んでいるのは、おそらく類化性能の持ち主が多いということの証左だと思います。

 私自身はどちらかというと非常におくてで、人の話をよく聞いて、それを人に伝えるといったことがもともと不得手な人間だったわけです。大学時代の4年間、ドストエフスキーに熱中し、その後18年間ほど、ドストエフスキーとはまったく別の領域の研究をしてきました。むろん、翻訳に関わるということもしませんでした。その理由は、「君子、危うきに近寄らず」とでもいいましょうか、自分には翻訳者としての資質が欠けている、と感じ、あえてそれを遠ざけてきたわけです。

  「君子、危うきに近寄らず」というエッセーは、2006年に出た『翻訳家の仕事』(岩波新書)の最後に載っております。この文章は、これまで2回ほど大学入試の問題にも取り上げられていますが、試験問題になるだけあって、自分で言うのは何ですが、なかなかよくできた文章であると自画自賛しています。といっても、自分で解いてみて、満点がとれるかどうか、確信はありません。ちなみにこの文章は、自分には翻訳者としての資質が欠けているという自覚について、また、そのコンプレックスをいつかしっかりと克服しなければならないという、そういう決意を文章にしたものです。私の東京外国語大学時代の恩師は、元学長でもあった原卓也先生です。原先生は優れた翻訳の才能を持っていた方で、『カラマーゾフの兄弟』(新潮文庫)を訳されています。その先生の一番弟子と自負してずっと育ってきた私としては、とてもではないけれども先生の足元にも及びません。ですから先生が、存命中は、絶対に翻訳に手は染めないみたいな、どこか先生に逆らうような、ひねくれた思いで翻訳を遠ざけてきたわけです。

 しかし、「君子、危うきに近寄らず」のエッセーの最後の部分は、実は恩師に対するオマージュで終わっています。発行年月日を見ていただくと、2006年となっています。私が『カラマーゾフの兄弟』の翻訳に取りかかったのが、じつは、2005年12月ことでしで、このエッセーはそれから間もなく書いていますから、ある意味で、これから『カラマーゾフの兄弟』の翻訳を始めるぞ、という決意を書いた文章とあるとも言えるわけです。ある雑誌の対談で私が、「もし2006年の時点で私の恩師がまだ存命であられたならば、決して『カラマーゾフの兄弟』の翻訳には取りかからなかっただろう。先生が亡くなられたのは、『カラマーゾフの兄弟』の翻訳をやれと、そう私に命じてくださったものと理解している」という発言をしたら、これもまたWEB上で叩かれました。逆に言うと、それぐらい原卓也先生は偉大であったし、『カラマーゾフの兄弟』(新潮文庫)が持った歴史と言いましょうか、抱えている読者はそれだけ数が多く、私と原卓也先生は師匠と弟子の関係にあるにもかかわらず、すさまじいライバル関係にあるとみなされ、その意味で、すでに故人となられた先生と私の間に、言ってみれば、まだ一つのドラマが進行中であるということです。

 今日は、これから私の自分なりの人生を語っていきたいと思います。私の人生を語ることがここに来ておられる方々にとってどんな意味を持つか、正直のところ、自分でも心もとないところがあるのですけれども、世の中には、こんな人間もいる、という、一種のたとえ話として聞いてくださるとうれしく思います。

 ちょっと余談になりますけれども、私はこの4月に名古屋外国語大学の学長に就任しました。つい10日ほど前、名古屋外国語大学の図書館長が学長室に来られまして、「先生、亀山郁夫全作品展というのをやりたいと思います。先生がこれまでお書きになったもの、発言されたもの、すべての資料を集めて展覧会をやります」と言うんです。私はびっくりして、「私はそんなことをしていただけるような人間じゃありませんし、とてもじゃないけれども、そんなことをされたら恥ずかしくて外を歩くこともできなくなりますから、それだけはやめてください」と申し上げたのですが、「もう私たちは決断しましたから」ということで、11月から私の「回顧展」が開かれるのだそうです。開かれると分かったら、私も何だか愉快になってきてしまいまして、家のあちらこちらに散らばっている資料を集め始めて、それを一昨日、大学に段ボールで2箱送りました。それを見ますと、2006年から2009年までの3~4年間には、自分で言うのも変ですけれども、『カラマーゾフの兄弟』に関わるすさまじいぐらいの露出があったことがわかりました。しかし、当時は、どんな記事がでても、それらの一つ一つに正確な記憶は全くなくて、ほとんど上の空で3年間が過ぎていったということです。とくに自分でも驚いたのが、3.11の直後に「アエラ」に乗った「現代の肖像」です。何と6ページにわたって、私の人生が書かれている。改めて読み返して衝撃を受けました。当時、私の記憶に残っているのは、WEB上で背中からぐさりと短剣で刺されたような、痛みです。ありとあらゆる取材に応じ、テレビでもラジオでも講演会場でもつかれたように『カラマーゾフの兄弟』の話をしたのですが、それが記憶としては、まるで水のように消えてしまっている。残された記録を手にしても、まるで他人事のような気がするのです。そんなこともあって、自分自身の人生を振り返るちょうどよい機会でもありますから、じっくりと話を聞いていただければと思います。

 私は小さい頃から書くことにとても強い興味がありました。同時に、小学校4年生から一人で英語を勉強し始めました。つい最近出た『偏愛記-ドストエフスキーをめぐる旅-』(新潮文庫)という本があるのですが、これは日本経済新聞に1年間連載されたエッセーをまとめたものです。単行本で出た際には全く売れなくて、そういう場合はそのまま絶版となるのが普通ですが、どういうわけか新潮文庫で再登場することになりました。機会があればお読みいただきたいのですけれども、『偏愛記』は、『カラマーゾフの兄弟』に絡めて、私とドストエフスキーが一緒に世界を、あるいは時間を旅した記録です。全部で、59編のエッセーから成っています。59は、ドストエフスキーが死んだ年、私が、『カラマーゾフの兄弟』の翻訳を完成させた年です。

 私は幼い頃から自分の家庭のいざこざに対する嫌悪感がありまして、本の中ではそれをかなり露悪的に告白しているところがあります。露悪的に告白する自分という存在に対して、もちろん後ろめたさもありましたが、何といっても家庭内における複雑な、不幸な出来事から、とにもかくにも目を背けたかった。そのための手段が英語を勉強することと、ものを書くこと、そして本を読むことだったわけです。英語はとても好きで、「世界をのぞむ窓」というか、ひたすら英語を通して外国に行きたいという夢を見ていました。

 自己逃避、現実逃避といいましょうか、そのもう一つのあらわれが音楽への憧れでした。小学校2年生のときにどうしてもピアノが習いたくなって、1年間だけピアノを勉強したことがあるのですが、家にはオルガンしかなかったものですから、キーの感じが全然違うんです。それでついにヘンデルのでしたか、「調子の良い鍛冶屋」という曲が全く弾けなくなってしまって、ピアノをやめてしまいました。ピアノをやめたことをずっと後悔していて、小学校5年生ぐらいになったときに、もう一度ピアノを始めたいという思ったことがありますが、一度自分から断念しているということもあって、ついに自分の口から言い出せず、本格的にピアノを学ぶことは二度とありませんでした。ただ、高校3年になって、受験時代にまた一人でピアノの勉強を始めたりもしました。

 音楽への憧れともう一つ、自分の中で確かなものとして記憶しているのは母の存在です。私自身は、かなり重症のマザコンでして、小学校3、4年生の頃、もし母が死んだら自分も絶対生きていられない、後を追って死ぬとまで思いつめるくらい、母を愛していました。母に対する思いはずっと続いていて、私が35歳のときでした。1984年に半年間、モスクワに留学することになりまして、4月1日に東京を出たのですが、それから3カ月になる前の6月30日に母が死にました。これも、何かの因縁なのでしょうね。当時は日本とロシアといいましょうか、ソ連との間に交流のパイプがなく、ビザを得るにも大変な時間がかかりました。帰るに帰れない状況があったのです。私はとうとう母の死に目にあえないばかりか、7月、8月、9月と3カ月間をモスクワで過ごして、9月30日に日本に帰国し、10月1日に栃木県の宇都宮に戻りました。

 母の死に目に会えなかったということは、ことによると、私にとっては幸せなことだったのかもしれない、と思うのです。帰国してから、母の死に際の写真を何枚も見せられたのですが、言葉は悪いのですが、とても不気味で、恐ろしくて目を背けるような写真ばかりでした。ところが、現実に母の死の場面を見ていないので、逆に母の記憶は、美しいまま生き続けているのです。私は今でも毎週一度は母の夢を見ますが、ほかの兄や姉は、全然見ないといいます。そこで思ったのです。お葬式を出すということは、個人を自分の記憶から葬り去ることなんですね。逆に死に目に会えなかったり、お葬式に出られないということは、個人の記憶がむしろより強く生き続けることを意味するのです。で、死に目に会わなかったことで、返って母は、自分の心の中で生き続ける可能性があるわけです。母の死を知り、慌てて帰国し、母の遺体に接していたら、ひょっとするとその瞬間に母の記憶は飛んでしまったかもしれません。そういう意味では今、私にとって夢の中で母に会えるというのは非常に幸せなことです。64歳の今でもいかに私がマザコンかということがおわかりになるかと思いますが、このマザコンである、という事実が、『カラマーゾフの兄弟』の翻訳をし、その作品における父殺しの問題についていろいろ考える際に大きく役立ちました。まず、そのことを申し述べておきたいと思います。

 幼い頃の私にとって、読書は、現実逃避の手段でした。と、同時に理想追求の手段だったようにも思えます。私はたくさんの偉人伝を読みました。たとえばエジソンとか、ナポレオンとか、ベートーベン、ヘレン・ケラー、野口英世、いろいろ読んで、特にベートーベンの伝記は何度も読んだ記憶があります。ベートーベンの伝記を読むことによって、私は、ずいぶん力を与えられました。

 実は最近、野口英世のことを調べ始めはじめました。その理由というのは、他でもありません。私は、いま、『運命について』というタイトルの新書を構想中なのです。私は、時代錯誤的なロマンティストを自称していますが、同時に、何かしら運命的なものに対する恐怖感があるのですね。運命とは、何か、を考えるとき、幼い頃に読んだ野口英世の伝記が何か自分に影響しているのかと思って、ウィキペディアで野口英世の伝記を調べたら、これは破天荒な人なんですね。莫大な借金を抱える、婚約者を捨ててアメリカへ行ってしまう、乱費癖があって、大金を一夜のうちに使い果たしてしまうとか、本当にドストエフスキーみたいな人で、とても偉人伝の対象になるような人ではないと思うのですが、実に生々しい野口英世の存在というものを知って、私自身は何かこれから縁があったらもう少し野口英世について調べ、彼の持っている人間性というか、そういったものと、ドストエフスキー的な非常に激しいものとを対比して論じてみたいと思っています。

 思うに、小学校4年生、5年生あたりで読んだ偉人伝は、子ども心に、絶えず上に昇っていくのだ、前に進むんだといった、力を勇気を与えられたという意味でとても大事な経験になりました。野口英世の次にヘレン・ケラーのことも、最近、WEB上でいろいろ情報収集したのですが、これまで、私が知らなかった秘話があらためて浮かび上がってきて、偉人伝というのは幼いときに読むだけではなくて、大人になってからもう一度、なにかしらしっかりした伝記で読み直す必要があると思うようになりました。

 私が最初に創作に手を染めたのは、たしか小学校4年生のときです。私が母の次に大事に思っていたタマという猫が死んでいく様子を、詩の形式で、B4のわら半紙に書きつけました。わら半紙が涙でぼこぼこになるぐらい泣きながら書いた記憶が残っています。初めての小説と呼べるものを読んだのは、小学校5年生のときで、ジュール・ベルヌの『地底旅行』。むろんダイジェスト版です。当時、それをまねた冒険小説を書きました。もう半世紀以上前になりますが、その内容をはっきりと覚えているのが不思議です。それを母にプレゼントして、「お母さん、将来、僕は芥川賞をもらうからね」と言ったのを今でも記憶しています。

 そして、中学校1年生の夏に、栃木新聞社が行った栃木県の中学生の作文コンクールで1等賞をとりました。「溺死」というタイトルの作文で、全文、栃木新聞に載りましたけれども、このタイトルは実は私に代わって、担任の先生が付けてくれたものです。たまたま夏休みの宿題で提出した私の作文が先生の目に留まって、これをコンクールに出すからというので先生が徹底的に赤を入れたのです。これは、僕の作文じゃないと思ったのですが、一応自分で清書して出しました。そして2カ月たったら特選の知らせがあり、新聞社の取材が入りました。でも、そのときの何とも言えない後味の悪さを感じたのを記憶しています。でも、もし先生が直してくれなかったら1等賞はもらえなかった、そういう矛盾した思いです。

 私にとって人生の一大事は、中学校3年生のときの『罪と罰』(中央公論社)です。当時出ていた「世界の文学全集」の第1回配本のもので、父が姉のために買い揃えてくれたものを読みました。『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフという青年が二人の女性を殺す、残酷な物語ですが、その青年との完全なシンクロが起こりました。私自身がラスコーリニコフになりかわってしまったのです。ラスコーリニコフが二人の女性を殺す場面を読んだ翌朝、朝からブラスバンドの練習があるので自転車に乗って出かけようとしたその瞬間に、「あっ、警察に捕まるかもしれない」と思いました。それで門の右側と左側を見て、「警察は張っていない」と確認して学校に行き、ブラスバンドのクラブに行きました。その記憶が鮮明に残っていて、後日、私の故郷である宇都宮市で講演をしたときにその話を紹介したところ、会場に当時ブラスバンドクラブに属していた親友が聞きに来ていて、その日、一緒に帰ったというのですね。そして、手紙に、「そういえば、あなたは帰り道に、自分が殺したのではない、ラスコーリニコフが女性を殺したときの血のにおいが自分の手から消えなくて困っている、というようなことを言っていました」と書いてくれました。私自身、そのことは全く記憶してなかったのですが、自分自身がいかに主人公のラスコーリニコフとシンクロできていたかということのしるしだと思います。

 中学校3年生に『罪と罰』がわかるのかとよく言われます。しかし、私自身は絶対わかったと言い切れる自信があるのです。登場人物の名前もほとんどすべて覚えました。今にしてその理由を考えるのですが、私が読んだ『罪と罰』の翻訳は、1960年代前半に出たもので、当時の最新の訳なんですね。かりに当時出ていた米川正夫さんなんかの翻訳を読んでいたら、恐らくそんなふうなシンクロは起こらなかったと思いますし、最後まで読みきれなかっただろうという思いがあります。新訳に出合えたのは、ほんとうに幸運でした。じつは、この話にはちょっと尾ひれがついていまして、私はテレビ番組や放送大学、講演会など、いろいろなところでこの話題を出してきて、そのたびに、私が『罪と罰』を読んだのは、中学校2年生の時だと、断定的に言ってきたし、書いたりもしてきたのですが、最近、このときのエピソードが含まれている本が文庫化されるにあたって、新潮社の校閲部の人が念のために調べてくれたんですね。そこでわかったのは、中央公論社の『罪と罰』の翻訳が出たのは、私が中学校3年生になるのとほぼ同時だったのですね。記憶違いというのは、恐ろしいと思いました。

 さて、私の現実逃避は、ついにシェークスピアまでいきました。たまたま私のいとこが中学校の演劇で『リア王』の主役をやることになり、一生懸命練習しているのを見ているうちに、私自身が徐々にシェークスピアの世界にのめり込んでいったのです。このときはダイジェスト版ではなく、当時の最新訳を文庫本で読みました。中学校3年生の終わりには、シェークスピアの代表作とは言いかねますけれども、『ジュリアス・シーザー』という戯曲の3幕1場を同級生たちと一緒に学芸会風に演じた記憶があります。私はブルータスに殺されるジュリアス-シーザーの役で、「ブルータス、お前もか」という有名な台詞を吐きました。

 次に、『カラマーゾフの兄弟』ですが、これは、高校2年生から3年生にかけて読んだのですが、このとき読んだのは理由があります。当時、宇都宮高校には石井先生という、芸大を出た大変優れた音楽の先生がいまして、この先生の息子さんの石井君が全国読書感想文コンクールで、『カラマーゾフの兄弟』について書き、たしか2等賞を取ったというニュースがホームルームで知らされたのです。そこで、むらむらと闘争心がわいてきたのです。私は中3のときに『罪と罰』を読んで、「ドストエフスキーは僕のもの」といった、人には譲らないという思いがありましたから、それであわてて『カラマーゾフの兄弟』を読み始めました。

 当時の私が、『カラマーゾフの兄弟』を読んだという事実は、私が高校3年生のときに書いた「自殺小論」というエッセーに反映されています。これは校内の機関誌に寄せたエッセーですが、そこには、『カラマーゾフの兄弟』の一節、ショーペンハウエルの『自殺論』、萩原朔太郎の『絶望の逃走』などの引用がちりばめられている、というか、おもしろいところを拾って書いたものです。もっとも、当時、私は、自殺に関して何か誘惑的なものを感じたり、あるいは、今で言う、うつ病に苦しんでいて死ぬことばかり考えていたのかというと、全くそうではありません。逆に死ぬことが恐ろしくて、恐ろしくてしようがなくて、そんな思いで「自殺小論」をしたためたのです。

 ただ、当時、私の中のどこかに何かしら異常なところがあると思っていたことが執筆の動機になったことも確かです。その一つの例を紹介します。どうやら、私は、パニック症候群のようなものを幼いときから持っているようです。例えばここに置いてあるペットボトルを過剰に意識する。すると、頭の隅で何かしらアイデアがパチンとはじける。つまり、「そうだ、今からこのふたを開けて、ここで聴衆に向かってぶちまけてやろう」みたいな、突拍子もない考えが浮かぶとします。そうすると、その行為に向かって自分の気持ちがどんどん加速的に接近していくといいますか、ぎりぎりふたを開けるところまでいく、そういうどこかしら、病的で、調子っ外れな部分があるとずっと感じてきました。何よりも恐ろしかったのは、プラットホームに立っていると向こうから電車が近づいてきて、絶対に自分は死にたくないと思っているのに、飛び込んでみる、という不条理な衝動のようなものにかられる。つまり、高校時代の私は、そうした意識の戯れといいましょうか、一種のパニック症候群によって、ほとんど無動機的に、ほんのひょっとした拍子に死ぬのではないかという恐怖から「自殺小論」を書いていたのです。近付いてくる電車に飛び込んでしまうかもしれないという、ある種の誘惑は、逆に、自分は何十年でも生きたいという願望、欲望が、一瞬、反転したような経験だったと思うのです。

 大学時代の4年間はずっとドストエフスキーかぶれの日々を送っていました。同時並行的に愛読していたのが、アンドレ・ジッドです。皆さんの中で『狭き門』を読まれた方はいらっしゃいますか。『田園交響楽』は映画にもなりました。アンドレ・ジッドはフランスのカトリックの作家ですけれども、一時、社会主義者になったこともある、非常に矛盾した作家です。我々の大学時代にアンドレ・ジッドを読むというのは、ある意味で、時代錯誤的な行為でした。私は1968年に大学に入学しましたけれども、68年の10月にはもう大学紛争の嵐が始まっていました。1968年のパリの5月革命を受けて、日本でも学生運動が起こり始めていたわけです。その当時の最大のヒーローは、むろんジッドなんかではなく、ジャン=ポール・サルトルです。しかし、私はサルトルのような難しい本は避けて、ジッドのロマンティックな小説に憧れて、そればかり読んでいました。

 しかし、友人たちが次から次へと逮捕され、学園から消えたりしていくのを見ていて、焦りが生まれてきました。大学生活を送りながら、政治に関わるという選択肢もあるのかなというふうに思って、手始めに読み始めたのが、サルトルの『実存主義とは何か』です。サルトルはこの本の中で何を言ったかというと、人間の本当の実存は、自分自身を未来へ向かって投企することであると。そして、投企された目標に向かってたゆまない努力をしていく。サルトルは、これを、自己投企(アンガージュマン)という言葉で表現したわけです。そしてそれこそが、リアルなexistence(実存)のあり方だという、こういう哲学だったわけです。これを、サルトルの読者は、政治的な文脈に置き換え、ある政治的な主張を実現するためにそこに自分を投企し、自分自身を実現していくと考えたわけです。ある意味で、非常にオプティミスティックな世界観といえるでしょう。他方、私は、そうしたオプティミスティックな世界観が気に入らなくて、結局、学生運動に本格的に加わることなく、4年間を過ごしました。

 大学3年のときに『罪と罰』をロシア語で50日間かけて全部読み通しました。大学に入って3カ月後にはほとんどストライキ、ロックアウト状態になり、まともに授業が行われなかったものですから、私のロシア語は完全な独学です。先生に教わった記憶がありませんから、私のロシア語力は、かなりゆがんでいるということです。先ほど私はWEB上で『カラマーゾフの兄弟』の誤訳批判にさらされたと申しましたが、その批判は実は正当なところもあるわけです。ロシア語をかなり独りよがりに読んでいた可能性があって、文法的にこうはならないだろうというところを、ぽんぽんぽんと突かれました。それらは第23刷ぐらいで全5冊すべてに直しを入れましたけれども、あとは解釈の問題だろうということにして自分なりに主張しています。いずれにしても独学によるロシア語が翻訳者としてやっていく上でけっこう足かせになったということを、ここでお伝えをしておきます。

 大学時代の最大の体験は、『悪霊』でした。その当時からするとちょうど100年前、1869年にモスクワで起こった内ゲバリンチ殺人事件をもとに、ある政治結社内における同志たちの殺し合いをテーマとして、ドストエフスキーは大きな小説を書きました。ただ、そうした政治闘争のプロセスを書くだけでは小説としておもしろみがないと判断し、そこに一人、ニコライ・スタヴローギンという極めて恐ろしい、悪魔的な人物を登場させました。『悪霊』には、一方で、革命を引き起こそうという革命家たちの「悪霊」と、他方において、人間的、精神的、道徳的に完全に破滅した人間の「悪霊」が存在します。しかも、その二人の悪霊は、かつて仲間同士で、ロシアに革命を引き起こそうとしていました。しかし、私が『悪霊』から受けた最大の経験は、この小説の中間部に収められた「スタヴローギンの告白」という、400字詰め原稿用紙にして100枚ぐらいの分量のエピソードです。私は本当にショックを受け、世界観ががらりと一変してしまいました。

 では、どんなふうに変わったか。それを説明しなければ、なりません。私は、先ほどから何度か言っているように、マザーコンプレックスで、憐憫病といいますか、人に対する憐れみということにものすごく依怙地になるところがあった人間でしたが、そういう感じ方なり、考え方は、根本的に間違っていると思い始めたのです。人を憐れむなどというのは単なる傲慢にすぎない。傲慢な人間だからこそ人を憐れもうとするのだと。そのような考えを持つようになって、それ以来、自分なりに人間として非常に冷徹さといいますか、それをあえて自分に許容するような、そんなタイプの人間に変わっていきました。そのきっかけを与えてくれたのが、『悪霊』だったということです。

 さて、そろそろ最後に、翻訳の比較に入りましょう。

 私は最初、「君子、危うきに近寄らず」で、翻訳はやらないと決心していたのですが、その決心を捨てました。「君子、豹変す」の例え通りです。

 『地下室の手記』を例にとりましょう。私の訳では、『地下室の記録』となっています。ドストエフスキーの人生、文学においてコペルニクス的転回を刻んだと言われる小説です。まず、Aの訳を読んでみましょう。

A わたしは病的な人間だ……わたしは意地悪な人間だ。わたしは人好きのしない人間だ。これはどうも肝臓が悪いせいらしい。

 これはロシア語じゃなくて英訳じゃないかと思われるぐらい、英語の訳と同じ訳し方です。読みやすいかもしれないけれども、ロシア語の持っている語順転換、語順を変えているドストエフスキーの文体上の工夫が生かされていません。

B ぼくは病んだ人間だ……ぼくは意地の悪い人間だ。およそ人好きのしない男だ。ぼくの考えでは、これは肝臓が悪いのだと思う。

 この訳では「およそ人好きのしない男だ」というところは主語が省かれていますが、原文には、語順が少し変わっていますが主語があります。

 AとBはそれぞれ3つの文章に分けているという意味においては、原文にかなり忠実な訳と言えると思います。

 ところが、Cはどうかというと、

C わたしは、病んだ人間だ……。わたしは、底意地が悪く、およそ人に好かれるような男ではない。肝臓でも悪いのではないか、と思う。

 原文は3つの文章になっているにもかかわらず、2つの文章になっています。原文を知らなかったら、おそらく、多くの読者が、Cの翻訳がいいと思われると思います。私もそれを期待して訳しました。かなり原文から逸脱しているのではないかという批判が起こる可能性はありましたし、覚悟はしていましたが、実際にそのような批判はありませんでした。では、なぜ原文の3つの文章を2つにしたかというと、問題は、リズムです。ロシア語で読むとリズム感がよくわかります。ドストエフスキーはものすごく文体のリズムにこだわっていたのです。日本語でリズムにこだわって訳そうとするなら、それなりの、日本語の特性にしたがったリズムを考えださなくてはいけません。かりに、日本語訳で、3つの文章に分けたら単調になって、リズム感が出なくなってしまいます。迷って、迷って、迷った末に、最終的には編集者に決めてもらって、Cの訳ができたというわけです。

 そして、『地下室の手記』(新潮文庫)か『地下室の記録』かについてですが、なぜ私は「手記」を「記録」に変えたかというと、これには私なりの強い動機付けがあります。ドストエフスキーは『地下室の手記』を書く前に『死の家の記録』という小説を書います。『死の家の記録』は、ドストエフスキーがシベリアの流刑地で4年間生活したときの生々しいドキュメントで、ロシア語で「Записки из Мёртвого дома」となっています。直訳すると、「死者の家からの記録」ですね。日本では、「死の家の記録」となっています。そして、ドストエフスキーは、次の小説でも、これと小説に同じ「Записки」という言葉を用いました。そこで、私は、「手記」ではなく、「記録」という言葉を選んだわけです。今までの翻訳は、ほぼすべてが、「手記」の言葉を採用しています。「Записки」という言葉には当然、「手記」の意味もあります。しかし、私は、『死の家の記録』とパラレルに考え、当然ここでは『地下室の記録』とすべきだということで、新しいタイトルを考えだしました。でも、講演とか授業とかいろいろなところでこの小説について話をするとき、ほとんど9割方、『地下室の手記』と言ってしまい、自分が訳したタイトルはほとんど使っていないというのが実情でございます。

 長々と聞いてくださってありがとうございました。ちょっと尻切れとんぼのような話になってしまいましたけれども、質疑応答で少し皆さんのご質問にお答えしたいと思います。
(拍手)

(了)