2013年11月講座

「動物と人間」

帝京科学大学総合教育センター兼アニマルサイエンス学科特任教授
石田 戢 氏

 

 私は昭和21年の6月生まれです。前の年の8月に戦争が終わって、両親が、平和になってよかったということで「おさむ」という名前をつけてくれましたが、「戢」という字を書いて「おさむ」と読みますが、ほとんど見たことがない字だろうと思います。私も、まともな文章の中では、漢文の勉強をやっていたときに一回見ただけです。仏典の中にある字で、世の中には3~4人同じ字を書く人がいるようです。

 私は東京育ちで、そのまま東京の学校をずっと上がって、大学に行きました。この名前からわかるかもしれませんが、父親は仏教学者でした。その影響があったのかと思いますが、大学に入るときに文学部以外のことは考えたことがありませんでした。大学は、文学部の哲学科でして、哲学というのは物を考える行為です。

 専攻は西洋哲学だったのですが、西洋哲学的なセンスが中途半端にしかないまま大学院に行こうか迷っていました。早い話が、ずるずると大学にいたわけです。そのころ彼女がいまして、結婚して欲しいという話になってしまいまして、24歳のときに学生結婚をしました。

 それで、就職しなきゃしょうがないということになって、相手が東京で仕事をしていたものですから、東京から動かなくて済む仕事場をいろいろ探していたら、都庁があると言われて、受けてみたら、受かったわけです。文学部ですから事務職です。辞令をいただいて、その裏側を見ましたら、勤務先が上野動物園と書いてあったのですね。「えっ、何をやるのか」という感じでした。

 私は、犬とか猫は飼ったことがありますから、別に動物が嫌いなわけではありませんが、まあ、普通の動物づき合いといった程度です。上野動物園に行って、「こういうところにずっといるのかな」なんて思ったのですが、昔の都庁はのんびりしていまして、自分のやるべき仕事が終わったら、本でも読んでいていいよと言われました。ありがたい仕事場だなと思いながら本を読んでいたのですが、私は元々、せっかちなものですから、ぱっぱっと仕事が終わってしまう。それで本ばかり読んでいるわけにもいかないので、園内をうろうろし出しました。そうすると、動物をよく見るようになって、だんだんおもしろくなってきたわけです。

 何がおもしろくなってきたかというと、私は哲学をやっていましたから哲学の話となってしまいますが、哲学というのは、物をまとめていくという作業なのです。概念化するというふうに言っていいのかもしれません。多様な事象を見て、それはこういうふうにまとめられるのではないか、つまり、ばらばらといろんな事象がある中で、それらを絞っていって一つ二つの概念にまとめ上げていくという癖がついているわけです。

 それで、動物を見ながら、この動物はこうではないかということをやり出したのですが、どうもうまくいかない。動物について絶対的な知識が足りなかったということもあるのですが、うまくまとまっていかない。つまり、動物というのはすごく多様な世界に生きていて、シンプルな論理でまとめ上げていくのは非常に難しいなと思い、興味を持つようになりました。

 もう一つは、動物園に勤めて、友達というか、同じぐらいの年齢層の連中としょっちゅう話をしたり、飲んだりしてわかったことは、彼らは本質的に動物好きなんです。ですから、人に説明するときに、自分はわかっているものですから、いきなり難しいところから入っていってしまいます。聞いている方は半分共感するのですが、半分わからないところがあるわけです。

 ところが、私はもともと素人ですから、わからないところから出発していくというか、普通の人がわかるように説明することができるわけです。そこで、私みたいな人間が存在することによって何らかの助けになるのではないかと思い出したのです。興味を持ったことと、私が動物園にいる価値が多少なりともあるのかなと思えるようになって、そこでちょっと工夫を凝らしました。

 都庁というのはすごくいいところで、何によらず試験で決めるのです。ですから、私が文学部を出ていようが何学部を出ていようが、内部の転職試験に受かれば転職できるのです。つまり、動物職になろうと思えば、仕事は飼育課でやっていたので実績はあるのでできるわけで、あとは資格です。それはペーパーテストで取れるので、試験を受けて資格をとりました。あとはいろんな意味でラッキーが重なって、現在、こんなことをやっているということです。

 今日は、2つのことを話してくださいと言われました。1つは、動物観というのは一体何かということ。もう一つは、4月から動物園の園長になるわけですが、そこで何をするのかということについて少しお話をします。

 まず、ちょっとわかりにくい動物観のほうからお話をします。今、私は人と動物の関係学会というところの会長をやっていますが、動物観というのは、人と動物の関係学というものの一部です。人生観だとか自然観の動物版だと思っていただければ結構です。

 どういうことがあるのか、シンプルに紹介しますと、何でもやっちゃおうというのが始まりです。動物園のお客さんを見てきて、動物に対する人間の考え方というのは多様だなということがわかったので、それを観察して、分析してみよう、いろいろなものを比較して見てみようということを考えるに至りました。

 具体的に申しますと、私と同じぐらいの世代の方はご存じだと思いますが、南極物語で有名なタローとジローという樺太犬がいました。南極に置いてきてしまって、翌々年だったか、南極に行ったら生きていた。この2頭は我々の時代の英雄です。ところが、ヨーロッパの人と話をしたときと、日本人でヨーロッパに留学していた人と話をしたときに、彼らは、「残酷じゃないか」、「殺して帰ってくるべきだ」と言ったのです。ちょっとショックでしたが、残しておくと苦しみだけ与えることになるというわけです。我々は、生きる可能性を残しておいたほうがいいのではないかと思うわけで、そのとおり生き残っていたから英雄です。感覚が違いますね。

 キリンにとって、座った状態から立ち上がるのは結構大変です。たまにひっかけてしまって、足の骨を折ったりするときがあります。足の骨を折ったら、大概治りません。そのまま死んでしまうわけです。ヨーロッパやアメリカでは、こういう状態が起きたら、まず安楽死を選びます。キリンに苦痛を与えてはいけないからです。実際、キリンは本当に痛そうです。

 ところが、日本の場合、それは許されません。私も何度か立ち会ったことがありますが、キリンが足を折ると、夕方5時ぐらいから飼育係を10何人集めて、麻酔をかけて、骨折部にギプスを巻きます。1時間ぐらいたつとギプスが固まってきます。そこでどうするかというと、立たせます。大きい動物ですから、寝かせたままにしておくとだめになってしまいます。だから立たせなきゃいけないのですが、まことに不器用な立ち方をしますので、ある部分にものすごい圧力がかかります。そうすると、ギプスがガツンと、また折れてしまうというか、もとに戻ってしまいます。そういうことを場合によっては3回ぐらい繰り返しますので、夜中になってしまいます。現場に立ち会っている人間は疲労困憊して、「ちょっとしょうがないかな」という感じになってきます。骨折治療はまだうまくいったことがないですが、何とか骨折を治したいというのが飼育係とか獣医さんの課題です。

 だけど、ヨーロッパに行ったら、これはかわいそうだということになります。つまり、痛みとか苦痛を重視するか生命を重視するかで、感覚的にかなり違うのです。こういうことがすごくおもしろい動物観の課題の一つです。

 このたぐいを探していくと結構ありまして、動物保護と愛護というのがあります。例えばヨーロッパでは、ブルバイディングというものが行われていました。ブルドッグというのは、もともとブル(雄牛)と闘わせるために開発された動物で、その闘いのことをブルバイディングと言いました。したがって、ブルドッグは、牛の角にひっかけられて飛ばされないように足が地を這うように短くなっていて、鼻が引っ込んでいるのは、噛みついたときに呼吸ができるように品種改良した動物なのです。皮肉なことに、ブルドッグが現在の形に改良が終わったときに、ブルバイディングは廃止されたのですが、こういう虐待のようなことをたくさんやってきたわけです。ですから、ヨーロッパ人はこういうものに対する反省がありまして、虐待防止法というのが今から200年近く前の1824年にできて、それから100年ぐらいかかって、20世紀の初めぐらいに動物保護法が完成しました。

 日本の場合はどうかというと、昔の本を見ていると、動物をいじめてはいけないということがどこにでも書いてあります。いじめてはいけない。それが観念としてくっついています。だからといって、いじめないわけではなくて、今から見ると虐待をしているところもあります。だけど、あまりいじめているという感覚はないのです。日本では、明治時代と戦後の2回、虐待防止協会というのがつくられました。しかし、会員を募集しても人が集まらないのです。なぜかというと、だれもが虐待しているつもりは全然ないからです。それを愛護にすると、ぴたっと成立する。動物愛護週間は、長い間続いています。

 動物福祉の原則に5Fというものがあります。Fは、フリーダム(自由)ですが、そのうちの4つは何かからの自由という意味です。何かから解放しよう、こんなことをしてはいけないということですが、はっきり言えば、何か悪いことをしているのです。恐怖だとか苦しみだとか痛み、病気、不快、飢え、放っておくとこんなことをやってしまう。だから、それはやめさせましょうという、マイナスからの解放です。1つだけ、ノーマル・ビヘイビアの表現の自由という、ややプラスの部分があります。

 何かを防止するという考え方はヨーロッパの考え方です。プラスして何かをしていこうというのが日本の考え方です。そのもとになっているのは愛情です。ですから、我々が飼育係に対して、何かプラスのことをしてあげようと言うと、みんな乗ってきます。でも、君たち、変なことをしているからそれをやめようと言うと、だめなのです。変なことをしているという自覚がないのです。今、自分たちがやっていることは、動物にとって厳しいことだということを自覚させられることは、嫌なわけです。つらい。だから避けたいという行動があります。

 日本の法律は動物愛護法です。愛護というのは、動物を愛さなければいけないのですが、愛そうが愛すまいが、そんなことは人の勝手ですよね。犬に噛まれたから動物を愛するのは嫌ですと言われれば、それはそれでおしまいです。しかし、それを法律の名前にするときは、愛護じゃないとうまくいかないということです。

 それから、品種改良です。犬の遺伝子を解析した最近のデータがありますが、オオカミから品種改良して今の犬になってきているわけです。例えば、使役犬です。これはオオカミ犬の遺伝子は少ししか残っていません。つまり、ものすごく品種改良されたということです。猟犬系のビーグル、ハウンド、テリヤ、レトリーバーなどもそうです。レトリーブというのは回収するという意味です。撃った動物を回収するのですが、もともとは小さい動物がやっていたのが、だんだん陸上の哺乳類がいなくなってきて、鉄砲でカモを湖の上で撃つようになりました。そうすると、湖を泳いでいってそれを回収しなきゃいけないということで、大きい犬が必要になった。そこでレトリーバーをつくり出すことになりました。

 犬の原種は狼ですが、日本犬は狼に一番近いとされる研究があります。ありていに言うと、一番原種に近いのは柴犬です。獣医さんなどに行くと、柴はちょっと注意だよと言われます。噛みつくのです。品種改良はあまりされていません。日本犬はあまり品種改良されていないのですね。日本人は、体をいじくるのがあまり好きじゃないのです。

 例えば、金魚でも、日本人はあまり変わったものはつくらない。もともとのスタイルを残して、色だけきれいにする。入れ墨を嫌がるのもそうです。私もピアスが嫌だったことがあります。穴をあけるとか、親にもらった体をいじくるのを嫌がります。そういう感性があると言えるのではないかと思います。

 我々は、いろいろなアンケートをしていまして、例えば、猫を去勢するという行為に対して多くの人が嫌がっていることがわかります。猫の去勢は、市民権をえていると思われるのですが、アンケートをとってみると、嫌だという人が結構います。おもしろいなと思います。サイレント・マジョリティにならないぎりぎりぐらいのところで了解を得ている。ましてや、犬のしっぽを切るのは絶対だめです。そういうことをやってはいけないという典型みたいなものです。

 それから、ヨーロッパ人は集めるのが好きで、動物の角だとか虎のなめし皮とかをインドやアフリカから持って帰ります。日本人の場合は狩猟をするのが好きな人でも、あまりそういうことはやりません。その辺が、動物観としてもあらわれているということが言えるのではないかと思います。

 管理するのも嫌のようです。最近見なくなりましたが、何かお祝い事があったときに、鳥を放すということがありました。あれは、放す前に狭いところに押し込めるので、かわいそうだということになったのだろうと思いますが、鳥はもともと飛んでいる動物だから、それをやることは善行、いいことだという観念が強くあります。それで、例えば神社でお祭りがあるときに放鳥するというようなことをやっていました。できるだけ自由にというのが、日本の感覚です。動物を管理するというのはあまり好きではない。

 その結果、鹿がめちゃくちゃ増えることになりました。鹿は今、一生懸命獲る人がいるのですが、やはり殺すことに対して嫌がる人は結構います。北海道の人は少し内地の感覚と違っていて、わりとエゾシカの数をコントロールすることに対して乗りがいいですね。一生懸命食べようとか鹿革を利用しようとか、獲ることに対してそんなに抵抗感がない。内地の人はもう少し抵抗感があります。もちろん、猟師さんが減ったということもあります。この前、猟師さんと話をしていたら、「鹿の数を減らさないと森林が全部なくなってしまうというのはわかる。だから、猟に協力したいとは思うけれども、あれは撃って、その後食べるのが楽しみで、食べないで、ただ撃つだけというのはせつないよね、協力はするけど、ほんとはやりたくないね」というようなことをぼそぼそと言っていました。このように、動物を管理することが自分たちの責任であるといった観念は非常に薄いですね。ですから、なるべく動物は自由にしてあげたいけど、実際はいろいろなことが起きていてどうしようかな、といったところで悩んでいるのではないでしょうか。

 今、山猫の保護も問題になっています。山猫のいるところに野良猫がいるとまずいわけです。エイズとかいろいろな病気をうつしたりして、山猫を駆逐することになりますから、野良猫を捕獲して、人間が飼える状態にリハビリして引き取り手を探すということをしています。すごく手間のかかる仕事になりますが、何とかリハビリの技術を身につけようとしたりするわけです。ヨーロッパに行ったら、そんなのは捕まえて、殺しちゃえばいいじゃないかという話になりますが、そうはなかなか合意が得られにくい。つまり、動物をコントロールする対象として見たくないということです。

 中世のヨーロッパでは、3~4世紀にわたって、動物裁判というのがありました。どういうことかというと、最初は豚ですが、豚が人間の赤ちゃんを食い殺す事件がおきます。それで、どういうきっかけだったのか文書が残っていないのでわからないのですが、ともかく裁判にかけようということになった。その感覚はすごくおもしろいと思いますが、赤ちゃんをかじった豚は、子供を殺したから絞首刑です。隣にいた子豚も一緒にかじっていたのですが、子供は親にすすめられてかじったにすぎないので、無罪というような裁判です。これはいろいろなところに敷衍していて、モグラが畑の作物を荒らしたからと、宗教裁判所が召喚状を出して呼び寄せようとします。しかし召喚状を出したけれども、来ない。動物裁判にも弁護士が必ずつきまして、弁護士は、来る方法がないと言います。そうすると、聖水をまいて悪魔払いをしておしまい、といったようなことをやりました。

 弁護士はいろいろなことを言います。例えば、ネズミを召喚したけれども途中に猫がいて来られなかった、といったようなことです。わけのわからないことを弁護士が言うので、読んでいておもしろい本です。多分、この時代は、ペストが広がったり、宗教改革が起きたり、いろいろなことがあって、かなり人間と動物のカテゴリーが混乱していて、その中で起きた事件だろうけれども、3世紀にわたってこんなことがまともにやられていたということです。

 魔女裁判もそうです。余計な話ですが、動物裁判は半分ぐらいが無罪です。魔女裁判は90%ぐらい有罪です。なぜか。動物の裁判は、動物は自白しません。当たり前ですね。魔女の裁判は、すごい拷問をするので自白してしまうわけです。自白してしまえば絶対有罪です。ところが、動物は自白しませんので、弁護士の腕次第ということになります。

 これは、動物の権利みたいなものと相似しているところがあります。多分、日本では起きないだろうと思います。裁判というシステムも、日本ではヨーロッパの裁判とは違ったイメージですが、そういうものをやっていく感覚は日本人にはないというか、どこかで人間と動物の区別を超えてしまうというところが日本にはないですね。近いけれど、離れているという非常に面倒くさい関係です。動物をいじめないとか、ある部分では近いけれど、最終的な動物と人間の違いみたいなものは何となく理解しているところがある。つまり、理解の仕方、違いを表現する仕方がヨーロッパ人と日本人は違っていて、動物観としては非常におもしろいところです。

 動物と触れ合うということがあります。触れ合いではなくて、単に触っているだけという場合もありますが、ふれあいというのは、中村雅俊の歌にもあるように、精神的なぬくもりですね。精神的なものが重視されている。だけど、触るという行為は代償的なものといえます。私も動物に触るとすごく気持ちいいです。性的快楽に近いのではないかと思いますが、触るということはすごくタブーになっていて、それを代償的に、何かで解消していくというのは重要なことだろうと思います。ですから、触るのは構わないのですが、それは向こうにとってはちょっと迷惑な話です。動物は嫌がりますから触れ合いではありません。しかし、やはり触ることは重要かなというジレンマもあります。

 ペットの名前について、本を出してしまいました。なぜペットの名前なんか調べたかというと、「動物は家族」だという表現が、調査をするとものすごく多い。飼っている人に聞くと、80%ぐらいが家族と言います。動物が家族だったら、何をするか、何をしないかということを考えて思いついたのが、名前です。しつこく言うつもりはないのですが、なぜ名前を人間と同じにしないのかといった、ちょっと嫌味な探索をしたわけです。1995年ぐらいと2006年の2回、ペットの名前の調査をやりました。20世紀、1990年代は、コロ、チビ、タロー、ラッキーがベスト4です。ずっとそのような名前が並んでいます。2006年はモモ、ハナ、サクラ、チョコということで、少し変わってきています。古典的な名前とちょっとしゃれた感じの違いでしょうか、人間にちょっと近くなってきたかなという感じもしますが、でも、人間の名前はあまりつけませんね。ちなみに、「おさむ」という名前は、2万6,000頭の中にはいませんでした。私の兄の名前は「タカシ」というのですが、これもありません。漢字二文字、先ほどの中村雅俊の「マサトシ」などという名前は、ほぼ完璧にないですね。ただ、最近、例えば人間の名前でも翔太(ショウタ)とかが多くなりましたが、そういう名前はあります。ということは、最近は人間の名前のほうがペット化している部分もあるような気がします。相互浸透が少し行われてきています。

 非常に興味深いのは、犬は10年でがらっと変わりました。10年前のベストテンはほとんど残っていません。ところが、猫は10年前のベストテントと1つだけ変わったぐらいで、ほとんど同じです。これは何なのだろうかと思っています。猫と犬に対する日本人の感覚がそれほど変わったとは思えません。どちらも大事にしているし、家族と同様に飼っていますが、名前に関しては、猫はそっけないところがあって、これについては、これから考えていかなければならないかなと思っています。

 いずれにしろ、子供の名前とは違います。ということは、家族と呼ぶことと、家族と同じに扱っているということはちょっと違うことがわかるのではないかと思います。全く同じには扱っていない、どこかに冷めたところがあります。自分と対等の立場でいるわけではないところがあります。孫感覚、子ども感覚はありますが、仲間とか兄弟とかという観念は非常に少ない。言い換えれば、成長しない子ども、返事をしない子ども、抵抗しない子ども、口ごたえしない子どもです。そういう意味では、言葉は悪いですけれども、非常に楽な家族と言っていいのかもしれません。

 いろいろお話を聞いていただいてわかると思いますが、半分遊びです。ただ、これを大学の講義にしていて、すごく人気があるというか、こういうことを研究したがる学生が結構たくさんいます。こんなもの学問ではないじゃないかと言われるかもしれませんが、実は動物観研究会というのをつくっていて、今週の日曜日に年次総会があります。だんだん参加する人が増えてきています。おもしろい発表がどんどん出てきているので、先ほどの人と動物の関係学会の中でもかなり大きな比重を占めるカテゴリーになっています。残念ながら、研究者としてまだ認められている人はあまりいませんが、追々そういう人も出てくるのではないかと思います。

 こういう感覚は日本人とヨーロッパ人は違うので、ヨーロッパの動物に対する取り扱いの仕方を日本に直輸入して、そのまますとんと落として使おうというのは、必ずしもよくないというときに、このことが非常に役に立つだろうと思っています。向こうでこうやっているから、こちらでもこうやりましょうというふうな言い方をされたときに、ちょっと違うかなということです。

 例えば、今、あちこちで犬のしつけ教室をやっています。ところが、あまり受けないというか、参加者が増えていません。先ほど自由と管理という話をしましたが、強制的なしつけをすることに対して、少し違和感を持っているようです。いや、うちは自由にさせるという人が結構多いですね。そういうところに注目して事に当たらないと、これはオーソドックスだからぜひやらなければいけないといって、ガリガリ説得に入るとうまくいかないので、その辺に対する配慮が必要です。獣医師さんとか看護師さんなどに対してこういう話をすると、なるほどというようなことで、対応策の一つに入れてもらえるようなところがあります。そんなところに役に立つ程度でありまして、実践的な役にはあまり立たないとは言えます。

 2つ目の話ですが、千葉市の動物公園の園長をやることになって、今、いろいろ考えています。市長さんと話をして、大きくは2つやってくださいということを言われました。1つは、リスタート計画という名前になっていますが、それをやってくださいということです。それから、運営管理をしっかりやっていただきたいということを言われました。

 リスタート計画は、園内の改造ですが、私としては展示をいろいろな形で改善したいと思っています。動物の特徴がわかりやすい展示だとか、生態、行動、生息環境などが表現できるような動物園ができればいいなと思っています。動物園に来て、全てのお客さんが見るものは、もちろん動物の展示です。動物の展示を見ない人は基本的にいません。ですから、そこで勝負するというか、そこでいろいろなものを出していくのが筋だと思っています。それ以外に、いろいろ言葉で説明をしたり、文字を書いて説明をしますが、ともかく見ていただいて、その中から感じてもらって、それに対して補助手段でいろんなことをやっていくというような環境をつくりたいと思います。

 それから、運営ですが、一言で言うと開かれた動物園にしたいと思っています。「開かれた」というのは何だろうと思われるかもしれませんが、1つは、いろいろなことをオープンにしていこうということです。動物園というのは希少な動物を飼っているわりには、内にもぐりやすいところがあって、外からあまり批判を受けない施設です。

 余計なことかもしれませんが、私は、大学を出て就職をしまして、研修の場で自己紹介をすることがありました。どこに勤めているかということから始まるわけですが、上野動物園に勤めていますと言ったときに相手はどういう反応をするかというと、昔は、みんな笑いました。なんだ、おれ、馬鹿にされているのかなと思ったものですが、動物園にいるというと、いい人とか、悪いことをしそうもない人、ちょっと変わった人というふうなイメージが強いです。

 しかも、世の中の人は、あまり動物園のことをまじめに追求してきません。私が在職中の30年間、動物園に対する東京都議会の質問はゼロでした。質問がこない。一回、質問の予告がありました。そのときに、担当の人が議員さんのところに行って、「あのう、動物園って、質問をしないことになっているところなんですけど」と言ったら、やめてしまいました。最近は少し出るようですが、すごい時代だったなと思います。つまり、動物園はまっとうに追及したり話題にするようなところではないのです。子どものための楽しいところなのだから、あまり触らないようにしようというところがありました。そうすると、周りはあまり文句を言いませんから、閉じこもっていても何も言われない。いい人が行っていて、ちゃんとやっているだろうと思われている。結局、そうやっていると殻にこもってしまって、開かなくなってしまう。それではどうしようもないですから、自分で開いていくようにするしかないと言っています。

 ボランティアさんだとかが近くにいて、マスメディアの人もたくさんいろいろな情報を求めて来ていて、それに対してフランクに開いているようで開いていないところがあります。例えば、メディアの方が動物園に取材に来る目的というのは、多分におもしろい記事、動物の楽しい記事を書くことです。動物園の深刻な問題とかに関しては、あまり聞きたがらない。実は深刻な問題をたくさん抱えているけど、それは共通の問題になりにくい部分がある。だから、閉じていても大丈夫という状態になります。

 そういう意味では、サービス精神あふれる動物園ということが大事です。お客さんに対して、にこにこ笑ってというのも必要だし、挨拶をするというのも必要ですが、いろんな意味でサービスを提供する必要があるだろうと思います。それは、動物園がどういう場かということです。動物園は、子供たちを中心としていろいろな人たちがゆったりと遊び、その中で動物のことを知っていく場なので、そういう条件をいろいろな形で整えていくことが必要です。しかし、いろいろな角度から考えていくということをあまりやっていないんです。そうじゃなくてもお客さんが来てくれるから、ちょっと怠けているところもあるので、そういうことをやっていこうかなと思っています。考えたことを全部出すと職員のほうができなくなってしまうので、少しずつやっていこうかなと思いますが、基本は、いろいろなサービスを提供する。ともかく考えられることはみんな提供したいと思います。子供中心ですが、子供から親とかおじいちゃん、おばあちゃんまで、本当にプリミティブな、楽しい空間から知的な空間まで全部やっていくようにしたいと思っています。

 それから、できるだけ国際的な視野に立っていきたいと思っています。というのは、今、動物を集めることに関しても、いろいろな法律がきつくなっています。例えば、猿類を持ってくるのはすごく大変です。エボラ出血熱など、感染症に対する拘束が厳しくなってきているからです。そのような制約がどんどん増えてきていますから、それに対応して、こちら側もしっかり国際的な観点に立って研究協力みたいなことをしていかないと、すり抜けられない。そういう功利的な観点で国際的な視野に立つということもあるのですが、本質的にそれはやらなければいけないことなので、功利的なことだけではなくて、いろいろ国際貢献をしていく。国際貢献というか、お互いさまですから、両方でやっていくということを意識してやらなければいけないと思っています。そういう意味では、一方では千葉市に対して貢献をすると同時に、全国的なものに対しても貢献をするということを意識しなければいけないと思っています。

 それから、ぜひやっていきたいのは、ちょっとまだ何をその核にしたらいいのかわらないのですが、千葉市の何か、千葉県でもいいですね、千葉の何かの文化の拠点に動物園が役に立てればいいなと思っています。どういうことがあり得るのか、私はまだ、千葉のことをよく知らないので、これからいろいろ考えてやっていきます。やっていく中で何かおもしろいものが見つかるかもしれません。何かあるものと一緒に動物園がやっていけることがあればいいなと思っています。

 千葉の文化とは何か。ある人が、千葉は農業的な要素が特徴なので、動物園と千葉の伝統的なものを結びつけたときに、農業という視点はあるのではないかと言われたことがあります。それも一つ考えておこうと思います。里山だとかいったものですね。もっと全然違って、例えば千葉市で何か盛んなものがあって、その拠点に動物園がなれるような、そういうものを探していって何かお役に立ちたいと思っています。

 いずれにしろ、動物園は明るくて、訪れるとうれしくて、楽しくなるようなところでありたいと思っています。現在、どのようにそれを仕掛けたらいいか、頭の中でいろいろ検討しています。今は、私はまだ園長ではありませんから、外側からの協力ということにで、計画書をつくる作業をやっています。近々、市のほうからそれなりのことが発表されるのではないかと思っていますが、今のところは間接的に参与して、いろいろ考えてやっています。今、具体的な内容は申し上げられないのですが、動物が闊達になること、それから、人がうれしくなるということを追求していきたいと思っています。

 動物園の役割というのは、実は4つあることになっています。かたい言葉で言いますと、研究、教育、レクリエーション、自然保護です。それらは当然のようにやりますけれども、そういうことよりもむしろ動物園の一番コアな部分である、人が楽しめる空間をつくりながら、動物園固有の役割を展開していくということをやっていきたいし、さらに、もう一つ加えて、何かの文化の核に動物園をしていきたいと思っています。

 あまりきれいな表現にならなくて、ばたばたと早口で申し上げました。これで終わらせていただきます。どうもありがとうございました。

(了)