2014年5月講座

「今の自分を越える ~もう一歩前へ~」

弁護士
菊間 千乃 氏

 

 私は、いろいろなことを乗り越えながら、今、弁護士という仕事をしています。人生を楽しく豊かに生きるために常に努力を続けることを意識しながら、42年間生きてきておりますので、自分の経験をお話しする中で、何か皆様のお役に立てるようなことがあればいいなと思います。

 私は早稲田大学を出まして、その後、フジテレビにアナウンサーとして入って、40歳から弁護士になりました。早稲田大学は小学校3年生のときに入ろうと決めて、フジテレビは小学校6年生のときに入ろうと決めて、弁護士は大学1年生のときになろうと決めました。その経歴だけを聞くと順調な感じがしますけれども、全部1回失敗しています。大学も浪人して、フジテレビも、私のころは大学3年生でも受けることができて、3年生のときは二次試験で落ちました。司法試験も1回落ちました。必ず1回失敗して、そこで諦めずに、失敗から学んで、必ず次に成功しようと努力をして今があります。努力をしてその先に明るい人生が待っているのではなくて、明るく乗り越えること、それこそが人生だと。努力をすることが自分の人生の一部だという生き方をしているので、苦ではありません。

 私は、1972年3月5日に生まれました。2歳上の兄が私の人生にとても大きな影響を及ぼしています。そして、父も大きな存在です。父は八王子実践高校バレーボール部といって、全国では有名な高校女子バレーの監督で、今80歳です。22歳でバレーボール部をつくってから58年間監督をして、80歳で引退をしました。全国から生徒さんを集めるので、父はずっと生徒さんと寮生活をしていて、週に1回だけ練習がない日に家に帰ってくるという生活を続けており、父と会うのはいつも体育館や試合会場だったなという印象です。その中で学んだのは、努力をすれば結果はついてくる、努力が全てだということでした。練習で怒られているお姉さんたちが大会で全国優勝するのを見て、努力すればこうやって報われるんだということを小さいころから見てきたことが、私の人生観にすごく大きな影響を与えています。

 勉強は、兄は秀才だったんですが、私は全くだめでした。この兄のおかげで、人並み以上に努力しないと通常レベルになれないということが小さいときに自然と身についたような気がします。スポーツでは自分が努力したら結果が出ていたので、勉強も諦めずに努力し続ければ、いつか花開くと思っていました。

 そして、早稲田大学の法学部に入りました。小学校3年生のときにラグビーの試合を観て「かっこいいな」と思った、それだけの理由で決めました。でも、やっぱり1回落ちて、大学浪人のときにものすごく勉強して受かったので、それが大きな成功体験になりました。このとき現役で軽く早稲田に入っていたら、私は弁護士という道には進まなかったのではないかと思っています。

 そして、フジテレビに入社しました。これは小学校6年生の時に「将来の夢はフジテレビのアナウンサー」と書いたほど、小さい頃からの夢でした。順調に番組をこなして、12年間働いてから、弁護士に転職をし、現在は弁護士として、松尾綜合法律事務所という企業法務中心の事務所で働いています。

 所謂弁護士業務以外の課外活動としては、ヒューマンライツウォッチ(HRW)という世界中にある人権団体の活動のお手伝いをさせて頂きました。世界中ではまだまだ人権侵害が行われているさところがたくさんあって、そういうところにHRWが調査員を派遣し、レポートを書いて、その国の大統領や首相に状況を改善するよう交渉していくという団体で、世界中の弁護士が調査員として活動をしているんですが、その活動資金は企業の方たちから寄附で成り立っています。私は寄付金集めのパーティーの司会という形で携わらせて頂きました。

 また、私は第二東京弁護士会に所属しておりますが、法教育委員会という会務活動をしています。学校に行って模擬裁判等の出張授業をしたり、中高生の裁判傍聴の引率をしています。いつか裁判員裁判で裁判員になる可能性がある皆さんに裁判を身近に感じてもらおうという活動です。

 去年は、サマースクールに参加してきました。うちの事務所は約50年間、毎年毎年1名ずつ弁護士をダラスのサマースクールに派遣しています。私のときは世界28カ国から約70人の英語を母国語としない弁護士が集まり、英米法や比較法について学びました。国が違えば法律も違うし、常識も異なる。各国の法制度を学ぶことは、日本の法制度を理解するうえでもとても勉強になりますし、刺激になりました。

 私は、常に、昨日の自分を越えたいと思っています。昨日より1センチでも2センチでも成長したいなと思いながら、生きてきました。

 アナウンサーを目指したのは小学校6年生のときですが、大学生になって、約1000倍の倍率だと知った時、(私のときには2、000人受けて2人採用)こればっかりは努力したから受かるものでもない。現実を見て、地に足の着いた就職活動をしなくてはと思っていました。

 そんなとき、大学3年生の秋頃でしょうか。「NHK特集」で骨髄バンクの番組を見たんです。今はドナーの数が増えてきましたが、当時はなかなかドナーが集まらなくて、ご自身も白血病を患っている中学生の女の子がバンクのイメージキャラクターのようにいろんな媒体に出演をして、ドナー登録を呼びかけていました。とてもきれいな女の子であった印象です。番組の中で、あなた自身も今、ドナーが見つからない状態で大変なのに、どうしてそうやって全国を回ってドナー登録の呼びかけをしているのかと聞かれて、彼女は、自分は間に合わないかもしれない。でも、これから骨髄バンクが必要になる人が、ドナーが見つかることで命が助かるのであれば、自分が亡くなったとしても本望だと言っていました。その後、彼女は亡くなったんですが、私は彼女のその言葉にものすごく突き動かされて、翌日、骨髄バンクのドナー登録をしました。このとき、「すごいな、テレビって」と思ったんです。テレビというのは、その人の人生が変わるきっかけになる、普段見過ごしていたものを気づかせるきっかけになるような力を持っているのではないかと感じました。そして、絶対テレビ局に入りたい、番組をつくりたいと強く思って、テレビ局以外の就職活動はやらないことに決めました。

 その後、運よくフジテレビに入ることができました。でも、入社当初は戸惑ってばかりでした。報道番組に興味があったんですが、性格的にバラエティーが向いていると言われて、思った方向と違う番組ばかり担当していたので、何か違うと。入社2年目になって、ちょっと報道寄りの情報番組を担当させていただいたときも、不満ばかりでした。生放送だったので、最初は「菊間さんの枠は5分ですよ」と言われていても、前半が押してくると最後には自分のコーナーが1分になってしまうことがよくありました。自分が1週間一生懸命取材してきたことをたった1分でしかお伝えできないことが悔しくて、スタッフルームの廊下で泣いたり、不満をぐちったりしていました。

 そのときにディレクターが、「菊間はつくり手のマインドがあるんだから、何かつくってみたら」と提案をしてくれたので、ドキュメンタリーの企画書を作ってみたんです。私は当初担当していた報道情報番組の中の10分ぐらいのコーナーでと考えてつくった企画書なんですが、「おもしろいからドキュメンタリー枠で企画書を書き直して出したら?」と言われ。今度は会ったこともない「NONFIX」というドキュメンタリー番組のプロデューサーのところに1時間半の企画書を持っていきました。

 そうしたら、プロデューサーが「入社2年目でそんなことをやろうという度胸があるやつはいない。おもしろいからやってみなさい」と言ってくれました。そして、深夜の枠だったんですけど、確か400万円いただいてドキュメンタリーをつくりました。それが秩父の天然氷のかき氷屋さんの1年間を追うというドキュメンタリーです。秩父に阿左美冷蔵さんという天然氷屋さんがあって、今はものすごく有名で、夏は3~4時間待ちは当たり前なんですが、当時はまだマスコミには出ていなくて、私が初めてテレビではお声をかけさせて頂きました。

 天然氷ってどうやってつくるかというと、大きなプールのような水槽が山の中にあるんですけれども、そこに山から水を引いて、あとはひたすら落ち葉をすくい取る作業の連続で、自然がつくる奇蹟の氷です。絵としてはすごく地味で、葉っぱをすくっている映像を流すだけなんですが、季節の移り変わりがあって、新緑のころから紅葉になって、雪が降ったりして、最後に氷が取れる。その過程がとても美しく、そしてなによりその氷が本当においしいんです。初めて口にした時は、かき氷の概念が変わりました。全く別物です。この感動を伝えたい!と思ったのが、私が阿佐美さんを題材に選んだ理由でした。

 半年間ぐらいはお休みゼロで、土日はずっと秩父に通い詰めて、阿左美さんといろんな話をしながら番組をつくりました。不思議だなと思うのは、1日も休みがない生活が続くので体力的にはすごくつらいはずなのに、土日に自分が好きな番組をつくらせてもらっているという思いがあると、月曜日から金曜日も頑張ろうと思える。今まで嫌だな、つらいなと思っていた仕事も、ほかに好きなことをやらせてもらっているんだから、頑張ろうと思えるようなったことです。その番組の中で、紅葉中継をしたら、たまたまそれを見た「めざましテレビ」のプロデューサーが「めざましテレビ」にスカウトしてくれました。それからは看板番組をたくさんやらせていただくようになって、順調にアナウンサー人生を送っていったんです。

 そのときに、目の前の仕事をとにかく一生懸命やっていれば次の仕事が必ず来る。仕事のご褒美は仕事で返ってくるんだなということを体感しました。ちょうと悩んでいたときに聞いた、フジテレビのドラマの有名な女性プロデューサーのお話にも励まされました。その方が「オレたちひょうきん族」という番組のADをやっていたころは、女性なのに物として扱われるような生活をずっとしていて、嫌で仕方がなかった。でも、仕事を楽しもうと思ったと。例えばコントで便箋を使うときがあると、便箋を5つぐらい用意して、画面の中に少しでも自分の演出を入れようと思ったんだそうです。形式上は、ディレクターに5つの中から選んでもらうのですが、彼女は心の中でこれがいいっていう1つを予め選んでおくんですって。それをディレクターにプレゼンをする。ディレクターは、便箋なんてどれでもいいよ、お前に任せると言ってくれる時もあれば、彼女の話を聞いて、ではそれにしようと言ってくれることもあったと。そうやって自分のプレゼンが通って、自分が選んだ便箋がコントの中で使われ画面に映った瞬間に、彼女は自分の演出が一つ達成されたと思い、日々の仕事にやりがいを見出していったというんです。「何か用意して」と言われたときに、ただそれを用意するのではなくて、自分らしさをどうやって入れ込むかとか、自分にしかできないものは何なのかということを考えながらやっていたことが今につながっているというのをお聞きしたときに、目の前のことを丁寧に一生懸命やる。当たり前のことをどれだけ意識的にやるかによって何年後かの自分が変わってくるということを実感しました。与えられている仕事や自分がやらなきゃいけないことを、こんなことは誰でもできる、自分はもっと大きいことができる、もっと大きい仕事をやらせてほしいと思っている人ほど、自分の目の前のことをちゃんとやっていない。丁寧にやっていないのではないのか。目の前のことを丁寧に一生懸命やることの積み重ねが次につながっていくのではないのかなと思います。

 さっき「たった1分」と言いましたが、1分間、全国メディアを使って物事を発信できるってすごいことなんですよね。企業が30秒のCMを流すのに何千万円とお金をかけるわけですから、それに比べたら、1分間もらえるだけでもありがたいことなのに、当時の私は、そういうこともわかっていませんでした。でも、アナウンサーとして経験を積むにつれて、1分の重みとか30秒の重みがわかってきて、時間や番組の大きさではなくて、自分自身が未熟だからなんだということをだんだん感じるようになっていきました。

 その後も順調にいろんな番組をやらせていただいたんですが、私が次の人生にステップアップしていくきっかけになったのは、オリンピックでした。オリンピックは4年に1回なので、4年間ずっと選手を追っていくんですね。例えば柔道だったら3分から5分ぐらいの間、陸上だったら本当に数10秒で決まってしまう、その瞬間のために選手の方たちが4年間ものすごい努力をしているのをそばで見ていて、すごいなと思うと同時に、私はこの4年間何をやったんだろうと自己嫌悪に陥ることがありました。

 一番大きかったのは、柔ちゃんのときでした。柔ちゃんはシドニーオリンピックで金メダルを取ったんですけれども、その前の2つの大会は銀メダルだったんですね。2回目の銀メダルを取ったとき、前評判で、彼女は「絶対金」と言われていました。銀メダルを取ってインタビューブースに下りてきた時、彼女は4年後のシドニーに向けて頑張りますと言ったんです。それがまた、すごいなと思ったんですね。4年間ものすごい努力をしてきて、銀メダルで終わっちゃって、ちょっとまだ先のことはわかりませんと答えるアスリートの方がほとんどじゃないかなと思う中、次の4年間に向けて頑張りますとその場で言った。その精神力の強さにびっくりして、この人を追いたいと思いました。そこから4年間、私は柔ちゃんをずっと取材させていただいて、シドニーでは実際に彼女が金メダルを取ったのをそばで見ていました。自分のことのように感動して、柔ちゃんすごいなと思ったんだけれども、じゃあ自分は何をしていたんだと思ったら、4年前の自分とあんまり変わっていないんじゃないかなと。仕事は一生懸命やっているけど、日々忙しさに追われて、何か自分で成し遂げたかとか、自分で何かを課して挑戦したかと思ったらいたたまれなくなって、何か私も人生を懸けるようなことをやってみたいと思うようになりました。それが31~32歳のころでした。

 情報番組では、毎日事件、事故のニュースをお伝えしていくんですけれども、例えばいじめの問題というのは、定期的に話題になる問題なんですね。誰かが自殺したとなると、マスコミは騒ぐんですが、それから何もなくて、4~5年して何かそういう大きな事件があると、また騒ぐ。もっと教育委員会はちゃんとしなくちゃいけないとか、現場はこうしなくちゃいけないとか、見守っていく必要がありますねとか、キャスターは座りのいいコメント言います。同じような事件があってそれを報道するたびに、前にも私は同じようなことを言っていたなと思うようになって、その言葉自体がすごく偽善者っぽいし、自分で自分を薄っぺらいなと感じていました。本当に私はそう思っているのか、それに向けて本当に何か努力しているのかと思ったんです。マスコミは第三者的立場でその時起こった事象をいち早く正確に伝えることが役割なのだから、それでいいのかもしれないんですけれども、伝え手として言いっ放し、やりっ放しな気がして、すごく不完全燃焼な気がしていたんです。もっと奥を知りたいとか、もっと先を知りたいと思うようになって、アナウンサーという仕事が自分にとってはちょっと物足りないように思えてきました。

 そんなときに、ロースクールができるという話を聞きました。私は大学生のときにアナウンサーを10年ぐらいやったら弁護士になろうと漠然と考えていたので、ちょうどいいかなと思って、本当に軽い気持ちでロースクールに入りました。当時は、ロースクールは輝かしい未来のように報道されていて、ロースクールを出れば8割の人は司法試験に受かると言われていました。私も、もう一回、浪人のときに経験したあの成功体験を味わいたい。ロースクールは4年間なので私も柔ちゃんのように、4年間頑張る、やってみようと思って入学しました。

 アナウンサーとして薄っぺらい自分を何とかしたい。裁判員裁判もちょうど始まるころだったので、きっと番組の中で裁判を扱うことも増えるし、自分の中に法的知識が入ればきっと役に立つなというくらいの気持ちで入ったんですが、入ってみたら本当に大変で、大体1日3時間ぐらいしか眠れない生活になりました。大宮のロースクールに通っていたんですが、お台場に会社があって、自宅のある目黒区とお台場と大宮を自分で車で移動していました。授業が夜の7時半から11時までで、終わった後にまた会社に戻って翌日の打ち合わせをして家に帰るという生活をしていたので、体力的には本当にきつかったんですけど、自分がやりたいと思って始めたことだったので、精神的には充実していました。私は夜間クラスに通っていたので、50人全員が社会人でした。最初はそういう皆さんと一緒に勉強しながら夢に向かっていくという自分に酔っているみたいなところもあって、わからないことがわかってくる喜びという、何物にもかえがたい快感がまた何十年ぶりに訪れてきて、非常に楽しくやっていました。

 ところが、第1回目の司法試験がありまして、私のロースクールから60人ぐらい受けて、受かった人が6人しかも夜間クラスからはたったの2人でした。夜間クラスから合格した人は、もともと学生時代に司法試験の勉強をやっていた人や休職した人だったので、働きながらロースクールで勉強をしていれば受かるというのは、どうも嘘のようだということに気づかされました。今さら後には引き返せない状況になっていて、持ち前の負けん気もあって、引き続き勉強を継続しましたが、とんでもないことに足を踏み入れてしまったなぁ、社会人は短い時間の中で要領よくやっていかないと本当に難しいなと思いました。

 合格者にお話を聞いたら、「休職しないと無理だよ」と言われ、フジテレビに「休職させてください」とお願いしたことがありました。当時、フジテレビには休職制度がなかったんですが、理解のある人事の方が「よし、つくってやろう」と言ってくださいました。但し、「休職するのであれば、マスコミに、菊間は司法試験の勉強に専念するため1年間休職します、と発表しないといけないな」と言われたんです。嫌ですよね、そんなの。ということは、フジテレビが試験の結果を一々発表することになるのかとも思いました。人生を懸けて司法試験に挑もうと思っているのに、そういうふうに話題にされることが嫌で、「嫌です」と言ったら、「それができないんだったら休職は認められない」と言われ、結局、休職は諦めました。そして、会社を辞めるか続けるかの選択を35歳のときに迫られました。

 そのとき、40歳の自分を考えました。30代前半のときの自分は40代の自分が不安でしようがなかったんです。30代前半はものすごく仕事も順調でしたけど、これが長くは続かないと思っていました。アナウンサーには「30歳定年説」という言葉があります。女性のアナウンサーで40歳を過ぎて画面に出続けている人は少なくて、後輩の指導とか管理職っぽいスケジュール管理に回っていく先輩を数多く見ていたので、アナウンス室の中で40歳以降の未来図が描きにくかったんです。その中でも、自分に何か付加価値をつければ、アナウンサーとしてもっと画面に長く出続けられるのではないかと思って、ロースクールを選んだわけですけれども、今は「ロースクールの授業があるので」と言って仕事を中抜けしたり、出張をお断りできても、ロースクールを卒業してしまえば、基本的に24時間また仕事モードになるので、自分で勉強の時間を取らなければ、毎日の仕事の忙しさに流されていく。卒業して5年以内に3回受けるチャンスがあるけれども、このまま会社に残っていたら、40歳になったときに確実に受かっていないだろうなと思いました。それでも「フジテレビアナウンサー」という肩書はあって、いいお給料をもらって、マンションを買って、結婚して、安定を絵に描いたような人生を歩んでいるという想像をしました。

 一方、辞めたらどうなるかなと思いました。5年の間に3回受けて、落ちたら無職。40歳で無職は怖いなぁと思いました。アナウンサーという仕事はデスクワークがないので、OLになろうと思っても情報処理能力がゼロですから、どこも雇ってくれないだろうなと思って悩みました。でも、フリーアナウンサーになるのだけは絶対嫌だったんです。1回退路を断って司法試験を目指すと言ったのに、だめだったからアナウンサーに戻りましたというのは一番格好悪いと思ったから、辞めるんだったら二度とアナウンサーはやらないと決めていました。でも、司法試験がだめだったときにどうするんだろうと思ったら、怖くて怖くてどうしようもありませんでした。

 それでも辞めたのはなぜかというと、最終的に、5年のうち3回落ちるかもしれないという不安は、35歳で自分が会社を辞め後の努力によってどんどん減らしていけると思ったからです。誰も私のことを「受からない」と決めたわけではない。もちろん誰も「受かる」と言ってくれたわけでもない。働きながら勉強していると、戦いを精一杯やりきれてはいないわけです。このまま不完全燃焼で三審(司法試験に3回落ちることをこう言います)すると、50歳ぐらいになったときに、私は何であのとき人生を懸けて精一杯戦わなかったのかなと後悔するんじゃないかと思いました。人生たった1回きり。やるだけのことをやって、それで失敗したのなら悔いはないという生き方が私らしいのではないか。努力をすれば結果はついてくるということは、幼稚園のときから私は学んでいたはずじゃないかと、自分に励まされ、奮い立たされ、やってみようというふうに思って、えいっと会社を辞めてしまった、35歳の冬でした。

 辞めた瞬間はうれしくて、24時間勉強のことだけ考えていればいいなんて、なんて幸せだろうと思って、ずっと勉強していました。でも、結果がついてこないと苦しいんですね。1回目の司法試験に落ちました。本当にどうしようと思って、2回目、3回目のプレッシャーといったら半端がない。もし2回目で落ちたら次が最後。これに落ちたら私はフリーターだ、無職だと思ったら、怖くて怖くて涙が止まらない。問題を解きながら涙が止まらなかったり、手が震えて文字が書けないという状態にもなりました。精神的に不安定な時期もありましたが的、勉強の不安は、やっぱり勉強で解消するしかないんです。泣いていて、怖い怖いといっても誰も助けてくれない、自分がやるしかないんだと思って勉強をしていました。

 司法試験というのは条文を覚える必要はないんですが、条文の構造を理解し、何条にどんなことが書いてあるというのがわかっていないと時間内に問題を解くことはできないので、結果的に条文の文言を覚えるようになっていきます。憲法は全文暗記しました。六法は分厚いので、民法、刑法、刑事訴訟法等、、法律ごとに裁断して持ち歩き、空いている時間や電車の移動のときなど、どんなときでも条文を読むということをずっと続けました。

 まとめノートも各科目自分で作っていくのですが、最終的に1時間で見返せるノートをつくるために4年間、5年間かけて勉強するというふうに言われます。最初はものすごい量の本や判例を読んだり、問題を解いたりしていくんですが、それをだんだん集約していって、基本的にここだけがわかっていれば、あとは応用力で幾らでも広げていけるというところまで到達することができるんです。そこまでいくのに時間がかかるし、何回も何回も書き直して、自分なりのノートをつくっていくんです。

 就寝前に翌朝解く頁を開いておいて、朝6時に起きたら顔も洗わず、歯も磨かず、とにかく寝間着のまんま机の前に座って勉強を始めていました。2時間勉強したら、ようやく顔を洗って、朝ご飯を食べて、支度をして、学校の図書館に行く。それから夜の23時までずっと勉強をして、終わって家に帰ってきて、シャワーを浴びて、24時には寝る。また6時に起きる。その繰り返しを1年間ずっと、1回目に落ちた後はやっていました。「テレビは見なかったんですか」とか「ストレス解消は何をしていたんですか」とよく聞かれますが、人間は本当に追い込まれると、ストレスを感じている暇なんてないんですよ。ストレス解消とか癒しとか言っているうちは、まだまだ精神的には余裕があるのだと思います。本当に人生が懸かって、明日生きるすべはないぐらいに、私は自分の中で自分を追い込んでいたので、辛いとか嫌だとか言っている場合ではなくて、1分1秒惜しんで勉強をしていました。

 テレビは、見ると昔の仲間が出ているんですね。私にとってテレビは娯楽ではなくて職場なので、自分は受かるともわからない司法試験に向け、図書館の片隅で朝からずっと勉強しているただの一学生になり、一方、昔の仲間は華やかな世界で活躍しているのを見ると、自分が負け組になったような気がして、それがまた辛くてテレビを見ることができませんでした。とにかく法律書しか見ない。暇があったら条文を見る。そんな生活を続けていました。もう1年やれと言われたら無理だったんじゃないかと思いますけど、そのぐらい追い込んで、受かるまでの最後の1年間は、1秒たりとも司法試験のことを考えなかった瞬間はないと言い切れるほど、司法試験のことしか考えていませんでした。

 辛い、辛いとなっていたときに、伊藤塾という予備校に本番の直前に模試を受けに行ったんですね。そこで女の子から手紙を渡されました。ファンレターでした。私はアナウンサーのときに「めざましテレビ」の生放送中にビルの5階から落ちるという事故を経験したんですけれども、そのことを『私がアナウンサー』という本にして10年前に出版していたんです。彼女は当時高校生で、バスケットボール部だったかな、試合の直前に足をけがして入院して、全てを懸けていたから本当に落ち込んでどうしようもなかったときに、私の本を病室で読んでものすごく励まされたと。いつか菊間さんに会ってお礼が言いたいとずっと思っていたら、模試の会場のトイレで、私の前に菊間さんがいてびっくりしました。司法試験の勉強というのは本当に砂をかむような日々で、達成感が得られないようなものだけれども、一緒に受かって弁護士になりたいですねということが書いてありました。とてもうれしかったです。

 その彼女をそんなに励ました本というのはどんなだったんだろうと思って、『私がアナウンサー』という自分で書いた本を家に帰って見てみたんですね。時間が惜しかったはずなのに読み始めたら止まらなくて、自分が書いた本なのに泣けてきて、すごく感動したんです。あのときの自分は本当に命が危なかった。まともに復帰できるかもわからなかった。一生下半身不随になるかもしれないというぎりぎりのところをすり抜けて復活してきたんだなぁと。司法試験なんて3回落ちたって死ぬわけじゃない。生命が取られるわけじゃないし、落ちたら落ちたでまた何か新しい人生がきっと自分の中にあるはずだ。20代の自分がこんなに頑張って乗り越えたんだから、30代の私も頑張らないと、20代の自分に申しわけないと過去の自分にものすごく励まされました。それが司法試験の1カ月ぐらい前。もうそこから先は全く精神的なぶれはなく、むしろやりきって澄み渡ったような気持ちで本番の試験に臨み、2回目で無事合格することができました。

 最後に弁護士の話をしますと、うちの事務所のボスの松尾翼先生は83歳の今も、現役でバリバリやっています。私は、先生が「他に誰も弁護する人間がいないのであれば、ヒトラーの弁護だって自分は引き受ける。弁護士は絶対にリンチに参加するべきではない。法の正当な手続は全ての人に保障される」ということを雑誌に書いていらっしゃるのをロースクール生のときに見て、こういう先生のもとで仕事がしたいなと憧れて、今の事務所に入れさせていただきました。いつも何をやるかより誰とやるかを考えていて、尊敬できる人のもとでお仕事をしたいなと思っていたので、今はとても恵まれた環境でお仕事ができていると思います。

 法教育委員会の活動で中学校や高校に行くと、「弁護士さんは、何で悪いことをした人の弁護をするんですか」と聞かれます。「あの人は悪い人なんだから、弁護する必要はないじゃないですか」とも言われます。でも、悪いことをしたからといって、みんなであの人は悪い、悪い、と言ったら、それはリンチです。最初にHRWの話をしましたけれども、今でも村の掟を破った人に向かって村人が全員で石を投げてその人を殺すという風習を持っている部族とか国があります。弁護士がいない世の中というのは、結局そういうことになるんです。

 犯罪者の人権というのは、多分一番下のランクに位置付けられる人権なんですね。そこの人権が一定のところできちんと保たれていないと、私たちの人権も守られないことになる。弁護士は最低限の人権がきちんと守られているかどうかを見張るために有罪者の人たちの弁護をするというお仕事です。やったことをやっていないという弁護はしないと決めています。やっているかなと思っても、本人が「やっていない」と言うのであれば、その言葉を信じます。なぜなら、弁護士は弁護をする仕事で、その人を裁く、評価する仕事ではないからです。それは裁判官の仕事です。

 全ての行動には理由があると思います。無差別殺人の様な事件でも、過去をたどっていけば何かがある。理由がある。なぜそうしてしまったのか、なぜこうなってしまったということを聞いて、やったことはやったこととして、それに見合った罪がきちんとその人に課されるように見張るというのが弁護士の仕事だと思います。

 企業法務を主に扱っている事務所なので、刑事事件はそんなに多くはやっていません。年に2、3件担当するぐらいです。日々は企業のトラブルを解決するお仕事で、最近は、労働事件とか、不動産関係の事件を担当することが多いです。9割方訴訟なので、ほぼ毎日裁判所に通っている日々です。。

 丁寧に仕事をするということで言えば、レスを早くするということは心がけています。レスが遅くなったとしても、何か付加価値をつけて、その依頼者の方が悩んでいることの参考になる判例を添付してメールで送り返して差し上げるとか、依頼者の方が気持ちよくなれるようなサービスは何かなと常に思いながら仕事をしています。相談者の方が笑顔になって帰ってくれるのが一番うれしいです。もちろんいい方向に解決して笑顔になるのがベストですが、定期的に相談に来てくださる方が、来たときだけでもすっきりして笑顔になってくれるような、「あなたに全部任せたわ」と言ってもらえるような弁護士になりたいと思っています。まだまだそこの域に到達はできていませんので、日々研鑽をして積んでいっている最中です。

 30代のときに、40歳は先が見えなくて不安だったと言いました。今、42歳の私には、50歳の自分というのが全く見えないし、どうなっているかもわかりません。でも、30代の自分と違うのは、見えないことが不安ではなくて楽しいなと思えることです。今、若い人は「安定、安定」と言いますが、安定というのは、要は見えている人生なので、つまらないと思うんです。いろんなことがあった人生ですけれども、振り返ってみれば、毎回逃げないで、そこに立ち向かって努力して乗り越えてきたという自負が自分にはあります。特に30代で頑張って40代で新しいステージに立ったという気持ちがあるので、今は50代の自分がどんなふうになっているのかと、ワクワクしている自分がいます。50歳になったときに振り返って、「40代の私は頑張ったね」と言ってあげられるような人生を歩んでいるのではないのかなと思っていますし、そうしなくちゃいけないと思っています。何も特別なことではなくて、当たり前に過ごしている日常に意識を向けて、毎日一つずつ、何でもいいから昨日より今日、今日より明日というふうに繰り返して進んでいくことが、きっと10年後の自分につながっていく。過去のつながりはずっと見えてきているので、その先がどうなるのかは全くわからないけれども、わからないこと自体が楽しいという生き方をしていければいいんじゃないかと思っています。

 私もアナウンサーのときに悩んでいましたが、誰かに不満を言うとか、社会に不満を言うとか、誰かを変えようと思っていると、世の中というのは生きにくいです。自分が変わったほうが早いと思います。自分が変わることで、見えてくる景色というのがあります。そうやって自分が変わろうと思って変わることができた時、それが自分に対する自信になって、生きること自体が楽しくなる。人の目を見て必ず丁寧に挨拶をするということを今日からやろうと心がけるだけで、きっと周りの人が皆さんに持つ印象が変わると思うんです。その変わることを実感できたときに、「あっ、おもしろい」と絶対に思うと思います。そうすると、今度はこれをやってみよう、あれをやってみようと思って生きることに意欲的になったり、積極的になって人生を楽しんでいけるのではないかなと思います。

 うちのボスが83歳なので、私も少なくともあと40年は弁護士ができるなと思っています。私も日々頑張って参りますので、皆さんも人生を前向きに意欲的に楽しんで歩んで行ってください。今日のお話が何かの参考になれば嬉しいです。本日はご清聴ありがとうございました。(拍手)

(了)